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スティーブ・パンジョンの婚約は、学園でもよく知られていた。
伯爵家の跡取りである彼と、名家スティルマン家の分家にあたるイサベラ嬢との婚約は、政治的な意味も大きく、何より「美男美女の理想的なカップル」として羨望の的だった。
それが、崩れ始めている。
私がそれをはっきりと認識したのは、学園の正門前、噴水の近くで見かけたふたりの姿だった。
「スティーブ、本当に……その花、彼女に渡したの?」
イサベラの声はかすかに震えていた。
だが、それは怒りではない。疑念、哀しみ、そして——
恐れ。
彼女の視線の先にあるのは、校庭の木陰にたたずむクリスだった。彼女は昼食を食べ終えた後、膝に本を置きながら静かに風に髪をなびかせていた。その姿はいつになく美しく、まるで絵画の一部のようだった。
「……ただ、礼を言いたかっただけだ」
スティーブの言い訳は、あまりにも浅い。
イサベラの手がぎゅっとスカートの生地を握る。
「“礼”? じゃあその『可憐な鈴蘭の花束』には、どんな意味があるの? あの花の花言葉……知らないはずないでしょ?」
「……『幸福の再来』」
スティーブは、まるで自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
彼がクリスに感じているものが、単なる“興味”でないことは、私にもわかっていた。
チャームの魔法。それは彼女の無意識が放つ“求愛”の波動。
だが、恋というものは、それだけでは済まない。
クリスは無垢だ。
けれど、チャームにかかった相手は、本気で彼女を愛してしまう。惚れたふりではない。偽りの仮面でもない。
——現実が歪むほど、真剣に。
「イサベラ、誤解するな。僕が選ぶのは——」
「言わないで。聞きたくない。スティーブ、私はあなたに『選ばれたい』なんて思ってなかったわ。私たちは……並んで歩くはずだったのに」
イサベラの声はかすれていた。
その場を立ち去った彼女の背を、スティーブは追おうとしなかった。
彼の視線は、あくまで木陰の少女へと向いていた。
私は傍らの柱の陰からその様子を見ていたが、思わず深く息を吐いた。
壊れていく。
静かに、音もなく、しかし確実に。
“あの子”の魔法は、もう単なる偶然では済まされない。
それにしても——
「……イサベラ、まるで“自分が負ける”と知っていたみたいな顔だった」
彼女のあの哀しげな瞳を、私は忘れられそうになかった。