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騎士科の訓練場は、午後の陽光に照らされていた。鋼の剣が打ち合わされる音、木製の人形に向けて投げられる魔力の震え。いつもの喧騒がそこにあるはずだった——ただ、今日のそれは、何かが違った。
「ロナルド副長の息子が、平民の女の子を追いかけ回してるって?」
「ありえないって! あの人、ずっと上級生の騎士姫に片想いしてたんだよ?」
「でも……あの子、見た? 何かこう、目が離せないというか……」
その「女の子」が誰なのか、私は言われるまでもなく察していた。
クリス・ビッジ。
小柄で目立たず、よく言えば「素朴」、悪く言えば「冴えない」平民の少女。
だけど、昨日の夜、ふと気づいた。彼女の影が、長くなっていた。誰かに照らされるように、静かに、けれど確実に。
「ジルーっ!」
本人が無邪気に駆け寄ってくる。相変わらずの鈍色の髪、ちょっとボサボサの前髪。でも……あれ? 胸、そんなにあったっけ?
「どうしたの?」
「さっきね、王子様に声をかけられたの!」
「王子って……ダレン殿下?」
「そう! なんか道に迷ってたら案内してくれて、それから『素敵な髪ですね』って言われて——うふふ」
自分のことを「うふふ」なんて笑うタイプじゃなかったよね?
胸よりも、そっちの変化のほうが怖かった。
「……クリス。ちょっと、私と一緒に来てくれる?」
「え、なに? お茶? お茶する? ねえ、ジルってほんと気が利く〜」
私の腕を嬉しそうに取る彼女の手は、ほんのりと温かい。そして、それが触れた瞬間——
ぞわり、とした。
魔力だ。
でもこれは、普通の魔力の流れじゃない。もっと、感情に近い。無意識に拡散されている。
……まさか。
「チャーム……?」
私は思わず口の中で呟いた。
気づいていないのは、本人だけだ。まるで、彼女の心が求めている“愛”が、形になって溢れ出しているみたいに。
でも彼女は、自分から誰かに手を伸ばさない。いや——伸ばせないのかもしれない。
だから、チャームは一方通行なのだ。彼女から他者へ。彼女自身は、恋を知らぬまま。
その夜、私はユベール・ウィッターに一通の手紙を書いた。
私に話しかけたあの日のように、冷静に、淡々と。
「貴方が言っていた“真実”について、手がかりがあります。
けれど、それは悪意ではなく、無意識によるもののようです——
それでも、手遅れになる前に動くべきでしょう」
返事が来るかどうかはわからない。
けれど、すでに手遅れになりつつあるのかもしれない。
スティーブ・パンジョンが、婚約者のイサベラを放って、クリスに花束を贈ったという噂が広がるまでは——
あと、一日もなかった。