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午後の陽光が静かに差し込む応接室。
ウィッター侯爵家の離れに設えられた小さな客間で、ジルとクリスはアントニオ・コロマ・ニコラスを迎えていた。
重たい扉が閉まり、使用人の気配が遠のくと、アントニオはゆっくりと腰を下ろし、深く息をついた。
彼の手には封蝋の切られた文書。魔導士の印が押された巻紙が一通。
「やっと結果が出た」
アントニオは声を落としながら、クリスとジルを見た。
「王子ダレン殿下にかかっていた“チャーム”の魔法――完全に、消え去ったそうだ」
クリスは一瞬、言葉の意味を理解できずにアントニオの顔を見つめた。
まるで、深い夢の中から急に現実に引き戻されたような、そんな顔。
「……ほんとうに?」
静かな問いだった。だがその声には、かすかに震えが混じっていた。
「間違いない」
アントニオははっきりと頷いた。
「王宮付の魔導士団が、数日かけて再測定を行った。過去の波動記録と照合し、すべての魔力の干渉が消失していることを確認したと、報告が届いた」
その瞬間、クリスの唇がわななき、目元が潤んだ。
けれど、泣くのではない。
むしろ――頬が、ふわりとほころんだ。
「……やっと、終わったんだね」
ジルは隣でそっと頷き、彼女の手を取った。
「うん。あの苦しさも、不安も、もう全部――終わったのよ、クリス」
「本当に……?」と、クリスはもう一度だけ念を押すように尋ねた。
けれど、もはやその声には恐れはなかった。
ただ、確かめたかったのだ。自分の今感じている希望が、夢ではないと。
アントニオは文書をジルに差し出した。
「読みたいかい? 正式な文面だけど、専門的な言葉が多くて少し難しいかもしれない」
ジルはそれを受け取り、ざっと目を通した。
「……殿下の魔力からは、精神干渉系の痕跡すべてが消えているって書いてある。重ねて、魔力の安定も確認されたって」
「これってつまり――」
「殿下はもう、チャームによって心を動かされていない」
アントニオが代わりに言葉を締めくくった。
クリスは静かに目を閉じ、胸の奥深くから、長く息を吐いた。
まるで、ようやく地に足がついたような感覚だった。
「誰かに好かれることが怖かった」
「誰かを惑わせているかもしれないって、いつも不安だった」
「でも、もう――そんなこと、考えなくていいんだね」
ジルはそっと彼女の背中を撫でながら微笑んだ。
「クリス、あなたは最初から何も悪くなかったのよ」
「うん……わかってる。ジルやアントニオさんが、ずっと言ってくれてた」
「でも、こうして“証明”されると……ほんとうに、自由になれた気がする」
アントニオは席を立ち、窓の外へと視線を向けた。
「王子もこれから本当の意味で選択を迫られるだろう」
「チャームのせいにできた過去はもう終わり、自分自身の意志で進まなければならない」
ジルもまたクリスの手を握り直した。
「私たちもね。もう魔法のせいにできないぶん、真剣に生きていくしかない」
クリスは、わずかに笑った。
「うん。これからは、自分の気持ちを信じて生きたい」
「チャームなんてなくても、誰かに想ってもらえるように」
部屋には静かな日差しが差し込み、カーテンがわずかに揺れていた。
戦いの終わりではなく、始まりのような空気が流れている。
それでも――その始まりは、清々しく、優しかった。
三人は、それぞれの胸に、新しい希望を抱えて立ち上がる。
どんな未来が来ても、もう目を逸らさない。
魔法ではない、自分たちの意志で、道を選んでゆくのだから。




