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午後の講義を終えて、私はいつものように学園の裏手にある第二庭園に足を向けた。
ここは学生たちの喧騒からも逃れられる、静かな場所。季節ごとに咲く草花の手入れが行き届いており、今は白い小花が地面を覆っている。
腰を下ろして本を開いたとき、足音がした。
振り向くと、彼がいた。
ユベール・ウィッター。
ミシュリーヌ夫人の夫であり、ウィッター侯爵家の当主。
学園の制服は着ていない。彼がここにいる理由は明らかではなかったが、彼の視線はまっすぐに私をとらえていた。
「学園長に少し話があって来た。そのついでだ」
第一声はそれだけだった。
「……そうですか」
私も本を閉じ、立ち上がる。
言葉少なに向き合う。
この人とは、どうしても“それ以上”の会話が続かない。距離があるのではなく、壁がある。無言のうちに築かれた、名と立場と……もっと別の何かが。
ユベールはふと目を細めた。
「ここにいるときの君は、ずいぶんと表情が柔らかいな」
「風が気持ちいいからでしょう。あるいは、誰も詮索してこないから」
「……それは大事なことだ」
そう言った彼の声には、かすかな疲れのようなものがにじんでいた。
侯爵家の当主。政務、社交、そして夫としての立場。
すべてを背負っている人間の声だった。
「ジル・ガーデニ。君は……最近、何を見ている?」
唐突な問いだった。
私は一瞬迷ったが、言葉を選んで返した。
「“歪み”です。小さなものですが、日々の会話の中に、表情の隙間に。
それが、やがて何かを壊すのではないかと」
ユベールの目がわずかに見開かれた。だが、すぐに戻る。
「そうか。……君は鋭いな。だからこそ、気をつけろ」
「何に対して、でしょうか?」
「“真実”は時に、人を選ぶ」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
私には分からなかった。
けれどその直後、学園の正門の方から誰かがユベールを呼ぶ声が響いた。
彼はわずかに肩を動かし、「失礼」とだけ言って背を向ける。
その背中が遠ざかる間、私はずっとそこに立っていた。
追いつけない。
けれど、背を向けてほしくない――
そんな矛盾を胸に抱えたまま、春の風に本のページがふわりと揺れた。