10
午後の陽が差し込むサロンには、甘やかなハーブティーの香りが満ちていた。
グラス越しに映る影は、揺れている。
私の前に座るミシュリーヌ・ウィッター侯爵夫人は、いつも通りの優雅な笑みを浮かべていたが、指先は微かに震えていた。
「ジル、少しだけ、聞いていただけるかしら。……あなたには、誰よりも信頼しているつもりよ」
「……承ります」
彼女が“誰よりも信頼している”のは、本当に私なのか――
それとも、他に耳を貸せる相手がいないからなのか。
その真偽はわからなかったが、私はうなずいた。
夫人は、翡翠のような瞳を伏せる。
「スティーブのことなの。あの子、最近……イサベラの話を避けるのよ」
私は表情を変えずに聞いた。
イサベラ――スティーブの婚約者。美しく、聡明で、家柄も申し分ない令嬢。
伯爵家の人間として、政略の一端も担っていたその婚約は、家門にとって“当然の将来”であるはずだった。
「今朝もね、イサベラから届いた手紙を“後で読む”と言ったの。昔なら、食事の席でも話題にしていたのに……どうも、何かを避けている気配がするのよ」
私は脳裏に浮かぶひとりの少女の名を、口に出さなかった。
クリス・ビッジ。
「ご不安なのですね」
「……ええ。わたくし、スティーブのことは“弟”のように思っているの。あの子はまだ若いし、正義感もある。でも時に……“恋”に踊らされるほどの年頃でしょう?」
言葉を濁しながらも、ミシュリーヌ夫人の眼差しは鋭い。
何かに気づいている――だが、それを断定するだけの確信が、まだない。
「ジル、あの子に何か……妙な変化を感じたことは?」
「――おそらく、彼は“惹かれている”のです。けれど、それが誰への想いかは、本人も分かっていない」
私は、言葉を選びながら答えた。
「無自覚なまま人を惹きつけることもあります。本人がその力を持っていると知らなければ、ますます混乱するでしょう。スティーブ様は、そういうものに巻き込まれているかもしれません」
「……誰が、そんな力を?」
夫人の声が静かに揺れた。
「それは、まだ申せません。ただ、“心の揺らぎ”が他人の意志で生まれているとしたら、それは……意図的ではなくても、無視できない」
ミシュリーヌは唇を噛み、そしてそっとカップを置いた。
「イサベラは、良い子なのよ。優しくて誇り高い。スティーブの妻として恥ずかしくないだけでなく……彼の暴走を止められる、たぶん唯一の子」
その声には、哀しみが滲んでいた。
「ジル。お願い。スティーブの様子を見て。あの子が“戻れなくなる前に”、手を打たなければならないわ」
「承知しました」
私は頭を下げながら、心の中でひとつ、決意を固めた。
チャームの影は、もう“私的な恋”の領域を超えている。
婚約、家門、そして未来の政略――
それらを歪めるには、十分すぎる魔法だった。
そしてそれを操っている少女は、誰よりも無垢な顔で、それを知らずにいる。
私はそっとサロンを後にした。
このままでは、誰もが傷つく。
“彼女”を守るために――
あるいは、“彼女の魔法から誰かを守る”ために。
私の立場は、ますます難しくなっていくのだった。