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かつて学園で「ジル・ガーデニ」として過ごした日々が、遠い過去のことのように感じられる今——
私はジル。いまはとある貴族家に仕えているが、その素性を明かすことはできない。というのも、今や王侯貴族が集う都の奥で、奇妙な魔法とそれに翻弄される人々の渦中にいるからだ。
その中心にいるのが、ウィッター侯爵家。
当主であるユベール・ウィッターは理知的で寡黙な人物。そして彼の妻、ミシュリーヌ夫人は美しく、夫を心から愛する女性だった。だが、彼女と外出を共にする謎めいた美丈夫、アントニオ・コロマ・ニコラスの存在が周囲に火種をまいていた。
アントニオは、遠い島国の王家の血を引く男。気品と野性を併せ持つその姿に、多くの者が心を奪われる。ミシュリーヌ夫人が夫以外の男と行動を共にしていることが、上流階級の噂の的になっていたが、彼女自身はそれに気づいていない。
そして、謎の“チャームの魔法”——
その魔法にかかった者たちは、次々に一人の少女に恋をする。その少女、クリス・ビッジ。貧しい出自、鈍色の髪、控えめな胸元——チャームがかかると突如として魅力的な姿へと変わる。
スティーブ・パンジョン、王子ダレン、その婚約者ジュリエット、そして宰相や文官の子息たちまでが次々と恋に落ちる異常事態。
だが不思議なことに、クリス自身は“恋される”ことに戸惑い、自分から誰かに恋をしようとしない。まるで、恋をしてはいけない理由があるかのように——
侯爵家の家令、執事、メイドたちもまた、それぞれの思惑を胸に抱きつつ、屋敷の中で静かに渦巻く陰謀に気づき始めていた。
私は知っている。
この恋と魔法と誤解に満ちた舞台の幕が、いま上がろうとしている。