1-5
お嬢様は剣を振った。
もちろん何も起きない。実際には剣など握っていないからだ。
「仕方がありませんわね……セバスから学んだ徒手格闘術の出番ですわ!」
そう言ったお嬢様は両拳を握り、龍とアンスに向かって駆け出した。
今回は私の出番はないようだ。強い意志が彼女を動かしている。
お嬢様の動きを見ていたアンスが、龍に命令を出す。
骨組みだけの龍は、それに頷くように頭部を動かし、口を大きく開けた。
次の瞬間、魔法で生み出されたであろう火柱が、一直線にお嬢様を襲った。
しかしお嬢様は、予備動作をしっかりと把握いていて、身体を重力に従って落ちるように地面へと這わせる。
完璧な重心移動が攻撃を避け、前へ倒れる直前に右足で地面を踏み込み、跳ぶ。
一足で、アンスとの距離を詰める。
「今の君は、どっちだい?」
アンスの声は少しだけ驚きを含んでいた。
だが、彼女は目と鼻の先に居るお嬢様に対して、冷静に対応をする。
ゴン、という鈍い音が響く。
突進の勢いをそのまま使われる形で動きの方向を変えられ、お嬢様の額は地面に激突していた。
金髪縦ロールの髪が空中に浮く。
硬い地面にぶつかったというのに、まるで球のように頭が空へと跳ね返った。
アンスが膝を上げ、足を突き出し、前蹴りを放つ。
無駄のない動作だ。身体を閉じて開く、全身の力を込めた美しい蹴りだった。
お嬢様は額を足裏で蹴られ、そのまま壁際まで飛ばされてしまった。
岩肌は少し脆かったのか、彼女は壁に大穴を開け、めり込んだ。
土煙が辺りを覆う。
頭部、つまりは急所への二度の有効打。
普通の人なら死んでいる。そう、普通の人なら、だ。
「いってー! ですわー!」
お嬢様は土煙の中、しっかりと二足で地面に立っていた。両手では頭を押さえている。
意識が朦朧としているわけでもなさそうだし、ほぼ無傷だといっても大丈夫だ。
頭に大きなたんこぶを作っていたが、それはそれで可愛らしい。
「流石に気絶くらいはすると思ったのだけどね。というより、なんで普通に生きているの?」
アンスの声は、いつもより低い。
この結果に関しては想定外だったみたいだ。
ここでやっと、私は先ほどの状況を理解した。
お嬢様がアンスの脚に触れる直前、地面に平行に動いていた頭は、垂直の妨害を上から受けたのだ。
「龍、強敵ですわ……」
お嬢様が羨ましそうに見つめている先には、一人の少女の身体を守るように巻き付く、骨となった龍の尻尾があった。尾先だけでもアンスの身長と同じ長さがある。
そんな巨体で、認識からの誤差なくお嬢様の最速の突進を防いだということだ。
その事実は、その龍が実態であることの証明にもなっていた。
壁際に追い込まれたお嬢様は、それでも私に手出し無用と念を押す。
ハッキリ言って、二人を相手にしている今の状況は危険だ。
龍だけだったらお嬢様だけでも対処可能だったろう。
しかし、想定外だったのはアンスの戦闘能力。伊達に二つ名持ちではない。当たり前だといえば当たり前だった。
私はある作戦をお嬢様に伝えた。
即席で作った”共闘作戦”だ。
幸運にも、アンスはお嬢様の奥の手を知らない。
もちろん防御の魔法、前の教育係が言っていた精神攻撃の対策はしているはずだ。
だから、できるだけ彼女に接近し、直接脳に声を叩き込む。
お嬢様は、私が提案した作戦を、というより最後に決める必殺技名が気に入ったようで、承諾してくれた。
『私が相手だ。お嬢様の額にたんこぶを作った礼は、きっちりさせてもらう」
私は土煙から飛び出し、岩肌を駆け上がる。一歩進むごとに、壁に亀裂が走る。
平面ではなく、もっと立体的に、この空間を使う。魔法などは使わない、脚力によるゴリ押し壁走りだ。
天井に着く前に、数多の火球が襲ってくる。
避けられない、ならば突っ込むのみ。
私の進路を予測して放たれた火球だったが、まさか攻撃に向かってくるとは思っていなかったのだろう。
私は空中で体を捻り、火球を躱す。薄皮一枚だ。
そのまま龍を無視して、アンスの頭上に踵を落とす。これは、先ほどのお返しになるはずだった。
「長く生きているとね、対人格闘術なんて嫌でも覚えるんだよ」
アンスは両手を頭上で交差させ、私の足を受け止めていた。
威力が最大限に乗る前に止められた。
それでも、彼女の足は固い地面にめり込んでいる。
すぐに龍からの追撃が来る。尾による叩きつけだ。
視界に迫る尾……
少女の腕に乗るような形で、私は空中にいる。
だがおかしい。
龍の尾は、アンスの背後から振り下ろされている。
それならば、私に直撃した後、彼女も潰されてしまうではないか。
秒にも満たない一瞬。
私はアンスと私、片方が当たって、私がに当たるまでの尾の時間を計算した。
結論、私に直撃した後、回避することは不可能。
ならば、今私が取るべき最善種は”下”に退くことではない。
そもそも、今までの戦い、その前提条件が違っていた。
先程、お嬢様が受けた攻撃は龍からではない。
実体の証明など、魔法があればいくらでも作れる。
そう、お嬢様が戦っていたのは、最初から一人だったのだ。
背中に風を感じた。
私は、アンスの腕を踏み台に、迫りくる尾に向かって”上”に跳んでいたのだ。
「二度も、か……感心だね」
背中には羽の生えたアンスが、満足そうに頷いた。
彼女の正面、その先にある洞窟の壁に、数多の亀裂が入っている。
開かれた羽から、何らかの攻撃をしたのだろう。
上体に多くある急所を守るため、身体を反らすなどしで下に逃げた場合、私の身体は刻まれていた。
「でも、残念だったね」
再び壁際まで退いた私に、アンスは笑顔で言った。
彼女の手には、血の入った小瓶。
私の脚には、一線の切り傷がある。
アンスは躊躇することなく、その血を飲み干す。
そして、狂気に染まった笑顔で、自分のお腹を嬉しそうにさする。
「僕はね、家族の力で生きているんだ」
彼女の顔は普段通り優しくもあった。
「ここにいるのは誰だと思う? この子はね、僕なのさ」
疑問に答える者を待たず、語りが始まる。
遥か昔、ある少女が求めたのは、家族だった。
彼女は死にたくなかった。自分の子供に手を握られてしか、死ねなかった。
そしてついには狂ってしまった少女。
年齢に抗い続け、老化を極度に恐れた少女の目的は、いつの間にか入れ替わっていた。
自分を新たに作り続けることで、永久不滅の命を手に入れる。子供は自分の複製だと、いつの日か考えてしまった。
それでも、突き抜けた狂気の先には、聖母のごとき慈愛に満ちた表情が残っている。
運命のいたずらだろうか、子を宿すことができない少女には、人一倍の母性があった。
──彼女はただ、母になりたかっただけだ。