第四十四話 幻想を削ぎ、刃は二人を研ぐ - 2
その言葉を合図にするように、星骸がゆっくりと「こちら」へと重心を移した。
血のように濁った赤い瞳が、新たな獲物──ルイとシアを、ゆっくりと捉える。その視線には知性も戦略も感じられない。ただ、傷つけられたことへの怒りと、生命を貪ろうとする飢餓感だけが、冷たい炎のように燃えている。
「シア、下がれ……!」
ルイが叫ぶ。だが、シアは杖剣をしっかりと両手で握りしめ、かすかに震える膝を押し留めるように、一歩も退かなかった。
「下がらない……! 私も戦えるようになりたい……!」
その決意が星骸に伝わったのか、あるいは単なる捕食の順番か──中心の赤い瞳が、ギラリと不気味な光を増した。
次の瞬間、星骸が動いた。
五本の触手が、互いに絡み合うこともなく、それぞれが独立した軌道で空中を蛇行し、ルイの頭部、胴体、四肢を同時に狙って襲いかかる。速い。目で追うことすら難しい速さで。
「っ……!」
──訓練場で、響哉が木の枝をポンポンと掌に打ち付けながら放った、あの雑すぎる言葉が蘇る。
「ルイ、見てろ。こうきたら──」響哉が一歩、無造作に踏み込む。その動きに続くのは、説明ではなく、ただの「結果」だった──彼の肩が、ルイの胸板を軽く押す。
「──こう。んで、こうきたら──」今度は枝が横から流れるように振られる。ルイがそれをよけようとすると、響哉の足がさっと彼の足元を掃う。
「──こう。ほら、簡単だろ?」
「全然わかんねえよ!『こう』って何だよ!もっとちゃんと教えろよ!」
「うるせーな。理屈じゃねえんだよ、これ」
響哉は呆れたように舌打ちし、枝をくるりと回す。
「体で覚えろっての。ほら、もう一回な。こうきて、こう、で、こっちはこう──」
彼の動きは、説明というより「見本」の羅列に過ぎなかった。一つ一つの動作は確かに存在するが、それらがどう繋がり、なぜそう動くのか──その「理屈」は、一切語られない。
「お前さ、考えすぎなんだよ。頭でっかち」
響哉は最後に、ぶっきらぼうに付け加えた。
「もっと体を動かせ。動いてりゃ、そのうち『こうきたら、こう』ってのが、体の方が先にわかってくるからさ」
(あんま分からなかったけど……!!)
ルイは本能的に体を沈め、捻った。響哉がぶっきらぼうに示した「こうきたら、こう」の断片的なイメージが、筋肉の奥で微かに痙攣する。一本目の鋭い触手が、ゴーグルの縁をかすめて風を切る。二本目をかわすためのステップを、凍結した地面で踏みしめる。
──ズッ!
三本目が彼の左足がいた場所を撃ち抜き、凍土をえぐる。間一髪。
「ちっ……!」
着地の衝撃を膝で吸収しながら、彼は腰の銃に手を伸ばす。視界は揺らめく黒い影と翡翠色の点滅で混沌としている。照準など定まらない。ただ、本能で一番目立つ光る一点を捉え、指が引き金を弾く。
異能エネルギー弾が青白い閃光とともに炸裂する。光が闇を切り裂き、弾丸は──星骸の黒曜石のような滑らかな装甲部に直撃し、鮮やかなオレンジ色の火花を散らして無惨に跳ね返った。僅かなスリ傷すら付けられていない。
「装甲部に撃っても無駄。『弱点を狙え』と言ったでしょう」
琴葉の声が、嵐の目のような静けさの中で聞こえる。彼女は少し離れた崩壊した壁際に寄りかかり、ただ観察している。
しかし、その指摘を咀嚼している余裕などない。次から次へと繰り出される触手の連打。回避するだけで精一杯。息が上がり、肺が灼ける。照準を定め、冷静に弱点を狙うことなど、夢のまた夢だ。
「くそっ……こんなの……!」
ルイは歯を食いしばり、またしても間一髪で触手の直撃を回避した。
その隣で、シアは違うアプローチを試みていた。
「《凍って》……!」
彼女の掌から迸る白い冷気は、星骸の触手一本を捉え、表面を不透明な氷で覆った。しかし、それは薄皮一枚に過ぎなかった。触手は一瞬の硬直の後、鞭を打つような荒々しい動きで自らの身を振るい、氷の殻を蜘蛛の巣状に砕き散らした。
「凍結が浅すぎるわ。氷は敵の体表を滑るだけ。『芯まで浸透させる』意志が必要よ」
琴葉の指摘は、相変わらずの平坦な調子だが、その内容は鋭い。
「わ、わかってる……! でも、動きが速すぎて、魔力を一点に集中できなくて……!」
シアの声には震えが混じる。それは恐怖ではなく、無力感への焦燥だった。
彼女は思い出した。響哉が言っていたことを──彼女の力は魔法という「術式」ではなく、「願いを魔力という媒体で現実に引きずり出す」異能だと。ならば、今、複雑な制御や精密な設計にこだわる必要があるのだろうか?
(琴葉さんは設計しろって言う。でも、私に今できる設計って……?)
一瞬、目の前がぼやけそうになる。でも、
(──できるかどうかじゃなくて、「やる」……!)
その瞬間、シアはある決断を下した。
目をぎゅっと閉じ、視界を遮断する。周囲の轟音、ルイの喘ぎ、琴葉の静かな観察眼──全てを意識から追い払う。
心に映るのはただ一点、忍び寄る一本の触手。地を這う毒蛇のように、ルイの気づかぬ死角へと迫る、あの黒く光る殺意。
(あの触手を、止めたい)
思考が一点に収束する。雑念が消え、視界が研ぎ澄まされていく。
(止めるには……動きそのものを奪う。凍らせる)
──かつて琴葉に氷漬けにされそうになった、あの絶望的な冷たさを思い出す。
(今、あの場所に、完全に固定する。逃げられないように、芯まで)
だが、そこでシアは気付く。魔法のように複雑な過程は必要ない。彼女の異能は、もっと単純でいい。願いを形にするには、ただ一点を定めればいい。この触手の、この範囲を。この一点から、この先までを。
触手の黒く光る表面。その下に蠢く神経の束。翡翠色に脈打つ弱点。全てを含む、その一本の「存在」そのものを範囲と定める。
「《止まって》……!!」
願いが、世界への命令となって迸った。
その瞬間、シアの足元から──彼女自身の意思とは別の次元から湧き上がるように、白い光の奔流が爆発した。
光が触れた一本の触手は、動作を完全に、絶対的に失った。表面から内部の組織、神経節に至るまで、あらゆる分子運動が凍結し、純白の氷柱と化す。再生も、振るい落とすことも許されない凍結。
「……!」
シア自身が目を見開いた。その効果に我ながら息を飲む。
しかし、星骸はまだ無傷だ。失った触手一本など、痛痒も感じていない。むしろ、新たな脅威と認識したのか、残る触手の全てが、今度はシア一人に集中し始めた。
「シア!」
ルイの叫び。無数の影が彼女の頭上を覆う。逃げ場がない。
その刹那、ルイの体が先に動いた。思考よりも、訓練よりも前に。銃を捨て、彼は一歩踏み込み、シアの細い腕を掴んで自分へと引き寄せた。そして、自分自身の背中を、落ちてくる無数の触手の鞭に向けて晒す。
背中で衝撃を受け止める。それだけの、単純な計算だった。
──しかし、その衝撃は訪れない。
代わりに聞こえたのは、鋭い切断音と、琴葉の冷ややかな声だった。
「仲間をカバーする姿勢は評価するわ。でも、方法が甘すぎる」




