第四十四話 幻想を削ぎ、刃は二人を研ぐ - 1
一時間が経ち、二時間が経ち。
やがて、荒涼とした地平線に、かつての文明の墓碑とも言える廃墟群が、歪んだシルエットを現し始めた。その一角に辿り着いた頃──琴葉が初めて、明確な意志を持って足を止めた。彼女の背筋が、微かに、しかし確かに張る。戦闘態勢への、無言の移行だ。
ゼェ、ゼェ、と肩で息をしながら、魔法の保温膜を必死に維持しているシアを見て、ルイが「大丈夫か?」と視線を投げかける。彼女は額の冷や汗を拭い、無理にうなずき返した。顔色は青白いが、瞳には怯えよりも覚悟が宿っている。
琴葉は振り返らず、崩れたコンクリートと鉄骨が織りなす廃墟の闇を見据えたまま、口を開いた。
「戦闘準備」
その冷徹な宣言に、ルイとシアは一瞬顔を見合わせた。今までの肉体的な疲労が、吹き飛ぶような鋭い緊張に置き換わる。荒野の静寂が、急に重く、鋭い刃物のように感じられた。
「ルイは私と共に前衛」琴葉の声は低く、指示的だ。「ただし、私は必要なときしか手を出さない。貴方は好きに暴れて構わない。自分の限界と、相手のパターンを、体で学びなさい。傷つくことも、痛みも、全てが教材よ」
ルイは黙ってゴーグルのストラップをきつく締め直し、拳を握りしめた。掌には、岩登りで付いた新しい擦り傷が疼き、それを覚悟の証のように感じた。
「シアは後衛。魔法を撃っていいけれど、ルイを巻き込まないように」
琴葉の視線が、一瞬シアに向けられる。
「今度は『敵を攻撃する』ことを『設計』しなさい。曖昧な『当たってほしい』では、絶対に当たらない。軌道、威力、着弾点──全てをイメージしてから魔力を形にすること」
シアは喉を鳴らし、小さくこくんと頷いた。まだ息は切れているが、アメジスト色の瞳は廃墟の奥を探り、敵の気配を追おうとしていた。
琴葉がゆっくりとこちらを振り返る。荒ぶる風が彼女の前髪を乱し、深紅の瞳が、二人を静かに見据える。その視線には、励ましも優しさもない。あるのは、厳しい現実をそのまま伝える、淡々とした確信だけだった。
「『外』で生きる時に最も大切なのは、『助け合う』ということ。
一人で勝てるわけがないと、常に自覚しておくこと。そして、助け合う仲間の一人でも油断したら、全てが崩れる。全員が、生きて帰るために、今の自分が出せる『最善』を尽くす。それだけよ」
ルイとシアが、息を詰めてその重い言葉を咀嚼し、固く頷いた、その瞬間──
琴葉の目が、廃墟の影深い一点に釘付けになった。
微かに、彼女の左手指が、ほとんど見えないほど痙攣した。
「来たわ」
その声は、風よりも静かだったが、二人の鼓膜には、この上なく鮮明な雷鳴のように響く。
──廃墟の影から、それは這い出てきた。
最初に見えたのは、ぬらりと光る黒い触手だった。それは瓦礫の隙間を、粘性のある液体のように流れ出る。次の瞬間、その隣から、また別の触手が。そしてまた別のものが。
まるで、影そのものが実体を得て這い出てきたかのようだった。全身が黒曜石のような光沢を持つ装甲で覆われているが、その体躯は固定されておらず、常に形を変えている。伸び、縮み、捻れ、溶け、再び固まる。
無数の触手が不規則に蠢く中、所々に関節部と思しき箇所に、毒々しい翡翠色の宝石状の発光体が不気味に明滅している。そして、それら全ての触手が根源的に繋がっている中心に──歪な肉塊のような核があり、そこに血のように濁った赤い一つの「瞳」が、こちらを捕らえていた。
「星骸……!」
ルイが咄嗟に銃を構える。だが、指は引き金にかかるものの、照準は定まらない。敵の輪郭が、常に揺らいでいるのだ。触手は八本か、十本か、数え切れない。それぞれが独立した意志を持つかのように異なる方向を向き、先端は鋭く尖ったり、吸盤のようになったり、無数の針状になったりと、形すら安定しない。
「軟体型ね」
琴葉の声が、氷のように冷静に分析する。彼女の視線は、星骸の動きを一寸も逃さず追っている。
「触手を個別に操る個体。物理打撃の分散、斬撃に対する柔軟性が高い。厄介だけど、珍しくはないわ。関節部の発光体が運動神経節、中心の瞳が思考の中枢。そこを潰せば動きは止まる」
必要な情報だけを与える。琴葉は一歩後ろに下がった。その手は、腰に提げた日本刀の柄に、ごく自然にかかっている。
「……手本は?」
ルイが、歯の間から声を絞り出す。
琴葉の口元が、ほんの一筋、鋭く結ばれた。
「見せてあげる。一度だけ」
琴葉の言葉が、虚空に残る。
次の瞬きの間に──彼女の姿が、視界から消えた。
いや、消えたのではない。
ルイとシアの動体視力と認知が、あまりにも遅すぎただけだ。
音も風切りもなく。ただ、一瞬の「空白」があった。
次の瞬間、琴葉は星骸の背後──揺らめく触手の森の中心に、静かに立っていた。抜刀すらしていない。黒いジャケットの裾が、触手の動きによって巻き起こる風に、ゆらりと靡くだけだ。
彼女の細い指が、ほんの一瞬、星骸の関節部の一つにある翡翠色の発光体に触れる。
──パキン。
乾いた、水晶が砕けるような微かな音。
その輝きは瞬時に潰え、暗黒に戻った。同時に、その神経節から伸びていた三本の触手が、断線した操り糸のように、一切の張りを失ってぶらりと垂れ下がった。
「弱点を的確に突けば、機能は停止する。ただし──」
琴葉が僅かに顎を引く。その動きと同期するように、残る無数の触手が狂った鞭のように彼女のいた空間を薙ぎ払う。コンクリートの瓦礫が塵のように砕け、轟音と粉塵が立ち昇る。
「一撃で中枢を絶たなければ、残存部分は自動的に反撃する。発光体と瞳を一緒に潰す」
彼女は粉塵の壁を、優雅とも言える歩幅で歩き抜け、再びルイとシアの前に戻った。服にも髪にも、血も一片の塵も付いていない。
「あとは、貴方たちに任せるわ。私はもう手を出さない」
「あの速さ、動き……俺たちには、とても……」
「できるか、できないか、は問題じゃない」
琴葉の声が、ルイの逡巡を鋭く断ち切り、
「『やるか、やらないか』。それだけよ。この荒野は、『できません』という言い訳を聞く耳を持たないから」




