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第四十三話 極寒マジカル・トレーニング - 2

 シアは目を閉じ、再び開いた。アメジスト色の瞳に、微弱だが確かな意志の灯火が灯る。彼女はルイの足元の、氷に覆われた岩の一部を「見つめ」、その氷だけを「取り除く」ことをイメージする。そして、ルイの手が届く高さの、何もない空中に、「岩と同じ硬さの一段」を「作り出す」ことを。

 微かな魔力の波動が走る。ルイの足元の氷が、円形に溶け、黒い岩肌が現れる。同時に、彼の目の前、胸の高さのあたりに、ぼんやりとした琥珀色の光の輪郭が浮かび、瞬く間に固化し、小さな足場のような突起が形成された。


 ルイは、シアが準備する魔法の足場を頼りに、岩壁を登り始めた。一歩一歩。魔法と身体能力の、初めての協奏が、極寒の岩壁で奏でられていく。

 しかし、その協奏はまだぎこちなかった。シアの形成する足場は、位置が不安定で、大きさもまばらだ。ルイは時折、不意に小さくなった足場に足を滑らせたり、想定よりずれた位置に形成されたため、無理な体勢を強いられたりした。彼の呼吸は次第に荒くなり、登攀のリズムは乱れていく。


 頂上の琴葉の眉が、再び顰められた。


 そして、ルイが次の一手を探し、少し躊躇したその瞬間──


「下手!」

「ひゃいっ!」


 一喝が、氷柱のように落下してきた。

 ルイもシアも、その鋭い一言に身体を硬直させた。


 琴葉は岩縁に屈み、二人をまっすぐ見下ろす。その深紅の瞳には、もはや寛容のかけらもなかった。


「シア、貴方の足場はルイの動線をまったく考慮していない。ただ『上』に作ればいいというものじゃない。彼の腕の長さ、脚力、次の体勢の取り方を予測した『最適な位置』に形成しなければ、かえって負担を増やすだけ」


 琴葉はため息とも吐息ともつかない白い息を一つ吐くと──ついに、動いた。



「いいわ、一度見せる。見て学びなさい」


 彼女は岩壁の頂上から、くるりと背を向け──そして、そのまま後方へ、宙へと足を踏み出した。


「あっ!?」


 シアが思わず声を上げる。しかし琴葉は落下しない。彼女の足元に、深紅の光の粒子が一瞬煌めき、氷の岩肌に、彼女の靴底ほどの小さな「段」が、パキッ、パキッ、と音もなく次々と形成されていく。それは完璧な等間隔で、登攀に最適な高さと角度を備えていた。

 琴葉はその魔法の階段を、まるで平らな廊下を歩くような速度で降りてくる。その動作には無駄が一切ない。魔法の生成と、自身の体重移動が完全に同期している。

 ルイはゴーグル越しにその様子を見つめ、息を呑んだ。これが「設計」された魔法か。これが、琴葉の言う「効率」と「再現性」か。願いや祈りではなく、確かな計算と制御から生まれる力。その完璧なまでの機能美に、彼の胸には熱い感嘆が沸き上がった。


 琴葉はルイの横まで降り立つと、彼の目の前の岩壁に手を触れた。



「ここに、左手用の保持点」琴葉の指先が触れた場所の氷が消え、最適な凹凸が現れる。

「そして、その右上四十センチ、彼の右脚を蹴り込むための支持面」別の場所の岩肌が微かに隆起し、角度が調整される。


 琴葉の指先が示した通り、ルイは左手を新たに現れた保持点にしっかりとかけた。冷たい岩の感触が、グローブ越しに伝わる。


「次は右脚を、今作った支持面に。角度を見て、踏み込むだけでいい」


 琴葉の指示は簡潔で的確だ。ルイは息を整え、右脚を上げる。琴葉が調整した支持面は、靴底がちょうど収まるような微妙な傾斜を持っていた。力まずとも、体重を預けやすい。


「そのまま左手に体重を移して、右手は……今、左上にできる」


 琴葉が言うと同時に、ルイの左上の岩肌が微かにへこみ、ちょうど掴める大きさの窪みが形成された。まるで、ルイの動きを先読みし、必要な手がかりをその都度提供しているようだ。

 ルイはそれに右手を伸ばし、体を引き上げる。動作が驚くほどスムーズだ。琴葉の魔法が、無理な体勢を強いることなく、自然な登攀のリズムを生み出していた。


 三つ、四つと、琴葉の誘導で足場と保持点を確保しながら登る。かつては無理だと思った垂直の壁が、整えられた経路によって「登れる場所」へと変貌していく。流石としか言いようがない技だ。



「……わかった?」


 頂上まであとわずかのところで、琴葉が下を振り返り、中腹で固唾を飲んで見守るシアに問いかけた。


「ルイの動き方、彼が次に必要とするもの。それを先回りして『用意』する。サポートというのはそういうものよ」


 シアは真剣な面持ちでうなずく。ルイが琴葉の誘導で登る様子は、生きた教科書だった。

 それと、琴葉の魔法を何度も見て、魔法の「設計」が、具体的に何を意味するのか、肌で感じ始めていた。


「じゃあ、後の部分は任せるわ。次は彼の右足が今かかっている支持面の、さらに斜め上六十センチ。彼が左手を伸ばした時のために、保持点を」


 シアは深く息を吸い込み、目を閉じて集中した。

 今度は「願う」のではない。ルイの動きをイメージし、彼の肩幅、腕の長さ、体を捩る時のクセまで頭に描く。そして彼の手が自然に伸びる位置を計算し、そこに「岩に馴染んだ保持点」があることを、頭の中で「設計」する。

 微かに、ほんのりと琥珀色の光が、指定された位置の岩肌を包んだ。光が消えると、そこには確かに、ルイの手に収まる小さな窪みが現れていた。形は少しいびつだが、機能はする。

 ルイは一瞬の躊躇もなく、その新しい保持点を掴んだ。彼の指がしっかりと収まる感触に、シアの胸が熱くなった。


 シアの瞳に、初めて確かな決意の炎が燃え上がった。琴葉の見本が脳裏に煌めき、自分にもできるかもしれない、という手応えが生まれている。


 三秒後。


「遅い! 作りが甘い! ルイが掴む前に崩れかけてるわ! ほら、端からぼろぼろ剥がれているでしょ!」

 シアが形成したばかりの足場が、確かに微かに粉を吹き、崩落の一歩手前だった。ルイが慌てて体重を移す。

「ひいっ!?」


 その直後。


「位置が悪い! ルイの体勢が窮屈になるでしょ! もっと右、三十センチ上! 彼の重心移動を考えて! 今の位置だと、次に右手を伸ばす時に腰が捻じれる!」

「右、上……あ、はい!」

 シアが焦って修正しようとするが、魔力のコントロールが乱れ、新しい足場が古い足場と重なり、かえってごちゃごちゃになる。


 さらに十秒後。


「今度は形が悪い! 掴む部分が尖っているわ! ルイ、怪我をさせたいの!?」

 シアが形成した保持点は、確かに岩として作れていたし、位置もある程度よかったが、表面がぎざぎざと鋭く、無理に掴めばグローブを傷つけ、最悪は手を切る恐れがあった。

「ルイぃい! ごめん!!」


 ルイは、不安定で時折ぐらつく足場と、時折思い通りに形成されない保持点に翻弄されながら、それでも必死に登り続ける。呼吸は乱れ、腕の筋肉が悲鳴をあげているのが分かる。


 そして頂上目前。


「シア!次は左足用の──」

「はい!ここですね!」

「……違うわ。それは右手用の保持点を作るべき場所。貴方、ルイの利き手を観察してる? 彼は次に右手を伸ばすはずなのに、そこに足場を作ってどうするの?」

「え、えええええ!?」


 シアの目が点になる。確かに、ルイは今、左手でしっかり保持し、次に動かすのは右腕だった。彼女は完全に見誤っていた。

 その混乱の隙に、ルイは自力で残りわずかの距離をよじ登り、頂上にたどり着いた。彼はぐったりと雪の上に崩れ落ち、肩で激しく息を荒げる。ゴーグルが曇り、ライムグリーンの瞳が疲労で虚ろだった。


 その横で、琴葉は腕を組み、深々とため息をついた。


「……とりあえず、今日の目的地までは、この調子で頑張りなさい」


「ええっ!? この、この調子でっ!?」シアの声は絶望に近かった。

「もちろんよ」琴葉の口元が、ほんのわずか、だが確かに上向いた。それは笑みというより、ある種の諦観に満ちた表情だった。


「失敗しながら覚えるのが一番でしょ……? 理論と実践の溝を埋めるには、汗と恥をかくしかないの……かくしかないんだけど……」


 ルイの顔から血の気が完全に引き、額には冷や汗がにじんでいる。シアは目を白黒させ、膝が震えていた。二人は、この先の過酷な行程を思い、文字通り青ざめていた。

 その隣で──琴葉も、静かに、ゆっくりと天を仰いだ。一瞬、彼女の堅い表情に、指導者としての責任の重さと、果てしない徒労感が影を落とした。

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