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第四十三話 極寒マジカル・トレーニング - 1

 ルイはゴーグル越しに琴葉の背中を見据えた。彼女の歩幅は機械のように一定で、新雪に刻まれる足跡は完諧な直線を描く。かつての地図さえ失われたこの荒野を、彼女はまるで自らの庭のように歩いていた。


「……琴葉、俺たちはこれからどこへ行くんだ?」

「着いてきたいと言ったのは貴方たちでしょう。黙ってついてきなさい」


 琴葉の返答は、風を切り裂く氷片のように鋭く冷たかった。振り返ることなく、彼女の足取りは迷いを知らなかった。凍てついた岩盤の裂け目を縫うように進み、文明の墓碑のような崩れた建造物の残骸を軽やかに越え、鏡のように滑る氷河の表面を、魔力で足底を微かに接着させながら滑るように渡る。その間、彼女は一度も振り返らなかっ──



「きゃあっ!? わ、足がッ……!」


 背後でシアの悲鳴が鋭く裂けた。琴葉が難なく渡った同じ地点で、 シアが跳び移った先の氷面が、体重に耐えきれずに軋み、蜘蛛の巣状にひび割れ始めた。シアは慌てて体勢を立て直そうとするが、凍った表面は容赦なく滑り、彼女は大きくバランスを崩してよろめいた。


「シア!」


 ルイが咄嗟に手を伸ばす。彼は氷上のわずかな凹凸に足をかけ、体重を移動させてシアの腕を掴んだ。しかしその瞬間、ルイ自身の足元の氷が低く唸るような音を立て、放射状にひびが走った。二人の体が宙に浮き、谷底へと引きずり込まれようとする。


「落ちるっ! 落ちるー!!」

「っ! しっかり……!」


 ルイの片手が、かろうじて氷の縁を掴んだ。だが、革のグローブが滑る。氷の縁が、爪を立てるように砕け始める。



 その時、琴葉は──完全に静止した。


 ゆっくりと、ほとんど自然現象のような速度で、彼女は振り返った。深紅の瞳が、崖際で今にも転落しようとする二人を捉える。その眼差しには、焦りも驚きもない。むしろ、「またか」という諦めに近い、ある種の予測済みの表情が浮かんでいた。彼女は深く、ため息とも吐息ともつかない白い息を一つ漏らすと、右手の人差し指を軽く弾いた。

 瞬間、ルイとシアの足元の氷が微かに青白く輝き、拡大しつつあったひび割れが魔法のように静止・補修された。同時に、二人の身体が無形の手で掴まれたように持ち上がり──乱暴に、しかし確実に──岸の雪原へと引き上げられた。 投げ出されるというより、不器用に置かれたような着地だった。


「……あのねえ」


 琴葉が歩み寄る。その足音は雪を軋ませず、死んだように静かだった。彼女は雪だらけになりながら息を切らしている二人の前に立ちはだかり、背後の灰色の空を背負うシルエットとなった。


「シア」


 琴葉の声は低く、しかし氷の刃のように鋭く二人の鼓膜を突いた。


「あなた、やはり基礎的な能力が足りていない。バランス感覚、筋力、瞬発力、氷上の体重移動といった地形判断の知識──全てが荒野での行動レベルに達していない。まず澄幽に帰ったら、珠桜にでも預けて徹底的に鍛え直してもらいなさい」

「は、はい……!」

「その上で、身体強化魔法を徹底的に叩き込んでやる。これも常態的に発動できるようにしなさい。足元を強化する程度のことも制御できないのに、 そんな汎用性の高い異能を持ちながら──」


 琴葉の唇が、冷笑のようにわずかに歪んだ。


「宝の持ち腐れ。いや、むしろ危険物よ」


 その苛烈な言葉の直後、シアの口から洩れたのは、



「はいぃぃっ、ごめんなさい!」



 ――詰まるような、泣き声を必死に噛み殺した返事だった。


 シアは深くうなだれ、視線を雪面に落とした。彼女の白銀の髪には無数の雪の結晶が絡みつき、恥辱と恐怖で耳朶から頬にかけてが真っ赤に染まっていた。握りしめた拳の指先は、雪の冷たさ以上に、力を込めすぎて失血したように白く凍りついて見える。


 ルイは黙って立ち上がり、自身のグローブについた雪を払いながら、視線の端で琴葉を捉えた。


 彼は気付いた。

 ――涙声で謝罪するその反応を、琴葉は予想していなかったのか。


 琴葉の深紅の瞳が、ほんの一瞬、わずかに見開かれている。鋭い評価者の仮面に、かすかな、しかし確かな驚きの亀裂が走った。それは、鋼鉄の鎧を纏った者が、予期せぬ柔らかいものに剣先を滑らせた時の、一瞬の虚ろぎに似ていた。

 彼女の視線が、うつむくシアの震える肩先へ、そして自分が放った冷酷な言葉の余韻が漂う空中へと、一瞬彷徨う。ルイはその一瞬の隙を、逃さずに観察していた。琴葉という人物の、もう一つの「何か」を垣間見た気がした。彼女が想定していたのは、反発か、あるいは無言の忍耐か――だが、この無防備な「謝罪」は、彼女の計算の外にあったようだ。


 次の瞬間、琴葉は目を細め、表情を再び硬質な無表情で覆った。しかし、ルイには分かった。あの一瞬の動揺は、確かにあった。そして、それは琴葉自身も認めたくない種類のものだったに違いない。



 琴葉は歩を進めた。峡谷の向こう側に風化した岩塔の影が見えてきた。

 彼女の移動は、もはや「歩く」という言葉が似つかわしくないほどの流麗さがあった。凍った岩肌のわずかな凸凹を足場とし、時には垂直に近い崖面を、魔力で足元を瞬間的に接着させながら、軽やかな三段跳びのように登っていく。純白のドレスの裾が風になびき、黒髪が軌跡を描く。荒野は彼女にとって、障害物というよりは、複雑な構造をした遊び場にも見えた。


「わ、待ってください、琴葉さんっ!」


 シアが必死について行こうとする。彼女は琴葉の動きを目で追い、同じ岩の突起に手をかけ、足を載せようとする。琴葉が魔力で補強し、滑り止めを施している場所は確かに登りやすい。シアも懸命に魔力を足元に集中させ、体を引き上げる。

 しかし琴葉の動きは連続的で、次の足場、その次の着地点への移動が一瞬のうちに行われる。シアは一か所に集中して魔力を張り、ようやく登ったと思ったら、琴葉はもう三つ先の岩棚にいる。彼女は焦り、息を荒げながら追いかける。白銀の髪が汗で頬に張り付き、吐く息は白く激しく乱れていた。



 一方、ルイはというと──最初の大きな段差の前で、完全に立ち往生していた。


 目の前には、シアが必死に登ろうとしている、ほぼ垂直に近い凍結岩壁がそびえ立っている。琴葉がまるで重力を軽んじるかのように、わずかな突起を足場に軽やかに越えていったあの場所だ。高さはおよそ五メートル。氷に覆われた岩肌は鏡のように滑らかで、掴みどころなどほとんどない。

 ルイは拳を握りしめ、岩肌を食い入るように見つめた。ライムグリーンの瞳が、わずかな凹凸、亀裂を必死に探す。背伸びして、なんとか届きそうな最初の突起を掴もうと、膝を曲げ、ジャンプする。


 ──スカ。


 指が氷の表面を滑り、冷たい空気だけを掴む。


(ちっ……)


 歯を食いしばり、もう一度。今度は助走をつけ、より高く跳ぶ。


 ──スカッ。


 指先が突起の縁に触れたかと思った瞬間、氷の膜がそれを拒むように滑り落とす。ルイは不甲斐ない自分の身体を呪った。ファロンとの戦いで鍛えられた筋力は確かにある。だが、それは「戦うため」の力であって、「登攀するため」の技術や身体の制御ではなかった。


(これじゃ、自分が足手まといだ……)


 恥ずかしさと焦りが胸を灼く。彼はゴーグルを押し上げ、額に浮かんだ冷や汗を拭おうとした。

 その時、上空から、鋭い喝が降り注いだ。



「シア!!」



 琴葉の声は、岩壁の頂上から鋭く切り落とされる刃のようだった。彼女は下を見下ろし、深紅の瞳に明確な不満を宿している。


「貴方、ルイのことをまったく考えていないでしょう! 異能者を同伴させるときは魔法師がサポートするのが鉄則!」

「あぁっ!!」


 岩壁の中腹で必死にへばりついていたシアが、はっとしたように声を上げた。彼女は下を振り返り、ルイが立ち尽くしている様子を初めて認識した。自分が必死に登ろうとするあまり、背後を顧みていなかった。


「ご、ごめん、ルイ! 今、なんとか……!」


 シアが慌てて片手を岩から離し、ルイの方へ向けた。しかし、そのバランスの崩し方が危うい。足元のわずかな突起が、軋みをあげる。


「シア、まず落ち着け! 自分が落ちるな!」


 ルイが叫ぶ。だが、シアの顔にはパニックに近い焦りが走っている。彼女は魔法を使おうと必死に願う──しかし、何をどうすればいいのか、具体的なイメージが固まらない。ルイを持ち上げる? 岩壁を登りやすくする? 魔力が空回りし、彼女の周囲にだけ微かな光の粒子がちらつく。

 琴葉は頂上で、もう一度深くため息をついた。


「願うだけではダメだと言ったでしょう! 『設計』しなさい!」


 彼女の声は、強制冷却剤のようにシアの混乱を一瞬で静止させた。


「ルイの足元の氷を溶かし、岩肌を露出させる。同時に、彼の手が届く範囲に、一時的な足場を魔力で凝固させて形成する。二点、三点……彼が登るための経路を、貴方が先回りして準備する!」


 シアは息を呑んだ。琴葉の言葉が、魔法の「別の形」を彼女の脳裏に提示する。願いではなく、計画。祈りではなく、施工。


「わ、わかった……やってみる……!」

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