第四十二話 初歩を刻め - 2
「魔法には、異能のような世界そのものを書き換える力はない。魔法は現実世界の理の上に、ほんの少しだけ上書きができるだけ。いわば、既存の紙の上に薄くインクを重ねるようなもの。紙そのものを別のものに変えることはできない」
シアが、必死に琴葉を見つめる。彼女のアメジスト色の瞳は混乱と理解への渇望で揺れ、凍りつくまつ毛の下で輝いていた。無意識に、彼女は自分の手のひらを見つめた――異能と呼ばれるその力が宿る手を。
「けれど、異能は──」
琴葉の声に、ほんのわずかな、羨望とも諦観ともつかない響きが混じった。それは、荒野を吹き抜ける風よりも鋭く、ルイの耳を刺した。彼はゴーグル越しのライムグリーンの瞳を細め、琴葉の横顔を、そのわずかに引き締まった頬の筋を、静かに観察していた。
「紙そのものを塗り替えてしまう力。もしくは、紙を金属板にしてしまったり、最初から存在しなかったものとしてしまう。それが、世界の『理』を書き換えるということ。具体的に言うと……」
琴葉は掲げた手のひらを、今度はゆっくりと水平に向けた。その動きは、何かを捧げるようでもあり、何かを示すようでもあった。何もない空間、舞い散る雪の隙間を見つめて。
「無から水を生み出したいとする。水を生み出せる異能者であれば、それは『願い』だけで叶う」
琴葉は言葉を切った。その沈黙の間、風だけが鋭く唸り、シアは思わず息を飲んだ。ルイは、琴葉の肩が、ほんのわずかだが、力なく沈むのを感じ取った。
「でも、魔法だと──」
次の瞬間、琴葉の掌の上に、微かな青白い光の粒子が浮かび始めた。一つ、また一つと、虚空から紡ぎ出されるように集まり、ゆらり、ゆらりと不確かに漂う。まるで消え入りそうな、傷ついた蛍の群れのようだ。シアはその光に魅入られ、前のめりになりそうになるのをこらえた。
「並行する別の世界で、元素を一つひとつイメージし、構成し、それに形を与えて……ようやく、この世界へと引きずり出す。途方もない集中力と知識、神経を削るような緻密なイメージが要る」
光の粒子は互いに引き寄せられ、かすかに水滴の輪郭を形作りかける。しかし、それは儚い。形が定まるより早く、端からぼやけ、崩れていく。作り物の輝きは、本物の清冽さを持たない。
「そして、たとえ形になっても……それは魔力で出来た偽物。いつか、必ず散ってしまう」
琴葉はそっと手を下ろす。未完成の水滴の形は、たちまち風に解かされ、跡形もなく消えた。彼女の深紅の瞳に、一瞬だけ、虚しい何かがよぎる。
「貴方は違う」
琴葉の目が再びシアに向けられた時、その深紅の奥には、揺らめく蝋燭の炎のような複雑な影が浮かんでいた。
シアはその視線に押され、一歩、後ずさりしたい衝動に駆られた。琴葉の眼差しが、彼女の内なる"何か"を、彼女自身がまだ理解していないその核心を、直視しているように感じられたからだ。
「貴方のそれは異能なのだから……理そのものを書き換える力がある。願うだけで、すぐに本物を作りだせてしまう」
彼女の声は、突然、氷のように薄く、そして危うく柔らかくなった。まるで、長年閉じ込めてきた何かの蓋が、ほんの一瞬、ずれたかのように。
「……私が幾千もの術式を積み重ね、魂を削るような集中をしてようやく生み出す『偽物』を、あなたは息をするように創造できる。私には決して踏み込めない領域へ、あなたは無意識に足を踏み入れている」
琴葉の指が、微かに震えた。それは寒さのせいではなかった。彼女はその震えを止めようと、拳を作り、爪が掌に食い込んだ。
「だから──」
言葉がそこで詰まる。彼女は顎を引き、目を強く閉じた。長い睫毛に、雪ではなく、かすかな湿気が宿ったように見えた。
──一滴、結晶化する前に消えてしまいそうなものが。
「……貴方を、羨む気持ちが……」
吐息が白く洩れ、次の言葉はほとんど唇の動きだけだった。しかし、鋭い風の音を遮って、ルイにもシアにも、はっきりと届いた。
「……ないわけじゃない」
瞬間、周囲の極寒が、琴葉の周りだけより一層深くなったような錯覚を覚えた。張り詰めていた“膜”の魔力が、ほんの一瞬、乱れ、彼女の黒髪が無防備に風に揺らめた。彼女が内心で堰を切った何かが、外界に漏れ出したかのようだった。
シアはその瞬間に、言葉を失った。琴葉が自分を"羨む"と言った。あの孤高で完璧に見える琴葉が。彼女の胸中には、理解できない罪悪感と、言いようのない居心地の悪さが渦巻いた。
ルイは静かに息を吐いた。ゴーグルのレンズが、わずかに曇った。彼は琴葉の背中に、自分の知らない、重い影を見た気がした。
「……失礼」
琴葉が目を開けた時、そこには再び、鉄のように冷たく硬い表情が戻っていた。ただ、その端には、消しきれない疲労の影が刻まれている。
「今のは忘れて」
彼女は背筋を伸ばし、声を整える。しかし、その響きには、さっきまでの絶対的な確信に、微かな、しかし深い亀裂が走っていた。それは、一度崩れた信条が、完全には元に戻らないことを示していた。
シアはうなずくことしかできなかった。忘れると言われても、琴葉の震える指先と、掠れた声は、もう彼女の記憶に焼き付いていて──離れない。
「指摘すべき事実は変わらない」
琴葉の声は、再び元の冷たいものに戻っているように聞こえる。ただ、その響きの底に、先ほどの揺らぎがかすかな余韻として残っていることを、ルイだけが聞き分けていた。
「あなたの力の使い方は祈りに近い。願いを籠め、結果を世界の摂理に委ねる。それでは再現性も効率も悪すぎる」
彼女の深紅の瞳が、シアの手――異能が宿るその手を一瞥する。そこには同情はなく、厳格な評価者の目だけがあった。
「命が懸かる場面で、『願い』が通じないこともある。だから、願った時に確実に同じ結果を生み出せる技術を身につけなさい」
琴葉はジャケットのポケットに手を突っ込み、薄い革の手袋の切れ端を一枚取り出した。使い古されたそれは、ところどころ色褪せ、繊維の摩耗が感じられた。
「しばらくは私が維持する。休憩地点まではこれで練習しなさい」
「これは……?」
「ただの手袋よ。範囲が小さく、平面に近いから練習に最適。まずはこの布の片面全体を、均一に保温できるように。『温めたい』と願うのではなく、『ここからここまで、温度をこれだけ保つ層がある』とイメージして」
琴葉はそう言い終えると、振り返ることなく再び歩き出した。その背中は、先ほどよりわずかに硬直しているように見えた。自分自身に言い聞かせているかのように。
「成功したら、次は服で。最終的には、肌の表面に直接『膜』を張れるようになるのが目標。外気を完全に遮断し、体温を一滴も漏らさない完璧な第二の皮膚を」
彼女の声が風に乗って流れてくる。
「それを常時発動させつつ戦闘ができて、初めてこの荒野で生きる資格がある。それまでは、三流以下。外に出ないほうがいいわ」
ルイは黙ってその背中を見つめ、拳をコートのポケットの中で握りしめた。指の関節が白くなるほどに。琴葉の言葉はシアだけに語られたものではない。彼自身にも、等しく突きつけられている課題だ。魔法を使えない彼が、この極寒と暴力が支配する世界で、何をもって"生きる資格"を獲得するのか。彼はまだ答えを持っていない。
シアは手の中の革切れを、そっと掌に包んだ。琴葉の体温が残るその感触は、生温く、そして異様に重く感じられた。彼女は目を閉じ、素材の織目、厚さの不均一、曲がりくねった縫い目を指先で確かめた。温もりを求めるのではなく、この物体そのものを、その形状と性質を、記憶しようとした。
これから築かねばならないのは『願い』ではない。『設計』だ。目に見えぬ命の防壁を、彼女はまだ知らない規則に従って、一から組み上げなければならない。
灰色の雪が、三人の行く手を覆う。琴葉の張り詰めた魔力の膜が、極寒をかすかに揺らしながら進んでいく。
荒野は無言のまま、三人の足跡を次々と雪で埋めていく。風がうなり、琴葉の黒髪を揺らし、シアの頬を冷たく撫でる。




