第四十二話 初歩を刻め - 1
霧渡りの橋を越え、月風門をくぐる。
──その瞬間から、世界は一変した。
澄幽の結界の外。背後を振り返れば、澄幽の影もそれを囲む森も、跡形もなく消えていた。変異体であるミコの能力だと、ルイは聞いている。
氷点下三十度を下回る極寒の荒野が三人を迎える。分厚い鉛色の雲が空を覆い、一片の陽光も漏らさない。灰色の雪が渦を巻き、鋭い風が岩肌を削る呻きをあげる。その中を、緑、白、黒髪の三つの影が、微かな足跡を残しながら進む。
「あ、相変わらず寒い……っ」
シアが思わず歯を食いしばった。吐息は瞬時に白霧となり、まつ毛にはすぐに氷の結晶が付着する。澄幽ではミコの加護により常春が保たれていたが、ここは一歩外へ出れば、生命を否定する極寒の死地だ。彼女は無意識に、厚手のコートの首元を強く握りしめる。癒えたばかりの四肢の奥に、鈍い疼きが走った。
「魔法で暖を取りなさい」
琴葉の声は、周囲の氷風よりも冷たく、しかし確実に二人の鼓膜に届いた。彼女は寒さを感じていないかのように、長袖ジャケットの袖をたくし上げる。食堂では軽く結われていただけの黒髪は、いつものように一つにまとめられていた。その姿は、荒ぶる自然さえ従わせる孤高の女王のように堂々としており、一片の焦りもない。
「え、でも……魔力の消費が……必要な時だけにしたほうがいいんじゃ……」
シアが小声で言う。彼女のアメジスト色の瞳は、琴葉の様子を慎重に伺っている。
普段ならお構いなく魔法を使うところだが、琴葉は魔法のプロフェッショナルだ。魔力は貴重な資源──無駄遣いを嫌うかもしれない。戦闘で足を引っ張ることを考えれば、使わない方がいい。今着ているコートも、久しぶりに引っ張り出してきたものだ。
しかし、琴葉はそんな悩みなど意に介さない。
「消費を気にするなら、この寒さで貴方の血液は二十分で凝固するわ」
振り返らず、前方を見据えたまま言い放つ。その横顔は、一切の迷いを許さない厳しさで彫られていた。
「外では、生存そのものが常時魔力を必要とする戦闘よ。体温維持、毒や瘴気のフィルター、索敵のための感知拡張──これらを惜しんでいられるほど、状況は甘くない。まずは『生き延びるための常時維持』を体に覚え込ませなさい」
シアは覚悟を決めたように目を閉じ、祈るように手を組み、握った。いつも通り、自分とルイが温まるようにと願う。すると、掌から柔らかな光が漏れ、二人を包み込むぼんやりとした暖かな球体が現れた。
ルイはその光に包まれ、ゴーグル──ファロン戦で失ったかつてのものと同じものを再び珠桜に貰っていた──越しのライムグリーンの瞳がほんの少し緩んだ。
しかし、琴葉の眉がきゅっと顰められる。
「待って」
「え?」
シアが目を見開く。驚いたその瞬間、光球は揺らめき、一瞬消えそうになった。ルイが寒さに身震いする。
「いつもそれをやっているの……?」
「は、はい……これで、いつも……」
「無駄が多すぎるわ」
琴葉がゆっくりとシアの方へ向き直る。深紅の瞳が、シアのまだ不安定な魔力の流れを、見透かすように捉える。
「発光による位置暴露は論外として、熱源から離れた部分の保温効率は悪い。空中で熱を拡散させているだけだから、少し離れればすぐに冷める。戦闘で動けば、たちまち意味をなさなくなるわよ」
琴葉の指摘は鋭い。シアの光球は、光が当たる側は温かくても、背中側には寒さが残る。琴葉は一瞬でその欠点を見抜いた。
一旦止めて、と琴葉が短く言う。シアが魔法を消した瞬間、琴葉の深紅の瞳が一瞬だけ光った。すると──突如として、全身が温暖な空気に包まれた。
外気の鋭い冷たさが衣服の表面で遮られ、肌の上をぴたりと覆う、見えない保温層が感じられる。光も形もない。ただ、生命を維持するための穏やかな暖かさが、全身を均一に包んでいる。
「温かい……! どうやってるんですか!?」
シアが興奮気味に声を上げた。
「"膜"を張るの」
琴葉が説明する。
「魔力で、衣服の内側、肌のすぐ上に、極薄の断熱層を形成する。空気を固定し、体温の放散を防ぐ。範囲は必要最小限。最初は全身の衣服の内側全体でも構わないが、理想は肌の表面数ミリ。接触面積が増えれば、魔力効率は飛躍的に上がる」
シアは息を呑んだ。あまりに精密で、根本的な考え方の違いに、頭が追いつかない。
「でも……そんな細かいこと、どうやって……」
「『願う』のではなく、『設計』するの。本来、それが魔法というものよ」
彼女は一瞬、言葉を切った。深紅の瞳が、舞う灰色の雪の彼方、何か遠いものを見ているようだ。
「……前、貴方の魔法を……偽物と言ったわね」
琴葉の声は、わずかに揺らいだ。
それに気付き、ルイはふと琴葉を見た。
(……声が)
「はい。私が、魔法だと思っていたのは……異能だって」
琴葉はゆっくりと目を閉じ、再び開いた。その瞳には、諭す者としての厳しさが戻っている。
「貴方のその力は魔力を消費して発動される。だから、気付かない人は魔法を使っていると勘違いするかもしれない。貴方も、きっとそれが魔法であると言われて育ったから、疑うこともなかったのでしょう」
シアは無言でうなずき、拳を握りしめた。自分の過去の日々を思い出そうとして──やめた。思い出したくなかった。指先が凍るような外気とは別の冷たさで白くなっていく。
「でも、それははっきりと言える。異能の力よ」
琴葉が一歩近づく。分厚い雲の下で、彼女の黒髪が一筋、蒼白い頬に触れた。その視線は、逃げ場のないほど真っ直ぐにシアを捉える。
「魔法と異能は、根本的に違う」
琴葉は手のひらを前に掲げ、説明を始めた。




