第四十一話 静かなる朝に修羅の門は開かれる
ファロンとの激戦から、二週間が経過した──
澄幽、《翠霞庵》。温泉の湯気がゆらりと立ち上り、木の香りが漂う食堂は、表の世界で暮らす人々の憩いの場だ。
まだ葛城から診療所からの外出を厳禁されている面々──「一ヶ月は絶対安静」の命令を破ろうとして説教の末、事実上ベッドに縛り付けられた珠桜、「そろそろ体を労われ、いい加減にしろ」と釘を刺された律灯と響哉──が不在のため、人が少ないのは寂しいだろうと、珍しく琴葉が朝食の時間に顔を出していた。
普段は人目を避け、自分の部屋か訓練所で一人で過ごす彼女だが、今日は何故か長い黒髪を簡素に結い、深紅の瞳を細めながら、窓辺の席で静かに膳に向かっていた。外では小鳥のさえずりが聞こえる。あまりにも平和な、澄幽の日常。琴葉にとって、これは守るべき「今」の形であり──同時に、いつか必ず失われる儚い幻でもあった。
彼女が箸を置き、そっと湯呑みに手を伸ばしたその時──運命はいたずらに笑った。
廊下をバタバタと慌ただしく走る足音。それは規律が自然と大切にされる風潮にある澄幽では珍しい騒ぎだった。直後、食堂の引き戸が勢いよく開き、息を切らせたルイとシアが駆け込んできた。二人は朝の光を背に受け、額に微かな汗を浮かべている。どうやら、琴葉がここにいることを聞きつけ、一目散にやって来たらしい。
何をそんなに慌てて、と琴葉が眉をひそめた瞬間──彼らはまっすぐに琴葉のテーブル前まで進み、揃って深々と頭を下げた。
「外行くんだろ! 俺たちも連れていってくれ!」
「お願いします! 戦いを教えてください、琴葉さん!」
ルイの声は力強く、しかしどこか必死で、シアの声は切実で、震えるような熱意を帯びていた。食堂にいた藤崎が、思わず手を止めてこちらを見る。
琴葉は一瞬、動きを止めた。湯呑みから立ち上る湯気が、彼女の驚きと困惑を浮き立たせるように揺れた。
「……何を言ってるの、貴方たち」
朝食を静かに食べ終えたばかりの琴葉は、まるで平和な日常を突然乱された猫のように、背筋をわずかに伸ばした。その表情は、呆れを通り越して、本当に嫌そうに歪んでいる。
非常に微笑ましく、またどこか胸を打つこの光景に、食堂を仕切る藤崎はニコニコと笑いを崩さず、琴葉の前の膳を下げつつ、「二人とも熱心やねぇ」とつぶやき、さらに彼女がこの場から逃げ出さないよう、新たに淹れたての温かい抹茶をそっとテーブルに置いた。
「絶対死なないように、もっと強くなりたいんです! 魔法も、もっとたくさん使えるようになりたくて……! 琴葉さんに直接ご指導いただきたいです、お願いします!!」
シアが再び頭を下げる。彼女の白銀の髪が前へと流れ、握りしめた拳が微かに震えている。
先の戦いで、シアは琴葉が一瞬だけ見せた魔法を脳裏に刻み、そのイメージを手本に何度も危機を切り抜けてきた。一度、琴葉の魔法が自分を守る盾となった経験があるからこそ、その冷たさの奥にある確かな「強さ」を、シアは痛いほど理解している。
「い、嫌よ! 絶対に嫌……貴方たちは澄幽にいればいいの」
琴葉の声には、いつもの冷たさ以上に、鋭い拒絶の刃が潜んでいた。彼女は無意識に、自分の左腕をかすかに抱きしめるような仕草をした。かつてそこで抱きしめた、冷たくなっていった何かの重み──失った者たちの最後の温もりが、皮膚の奥で今も疼いているようだ。
「頼む、一生のお願いだ!! この通り!!」
ルイはさらに深く頭を下げ、額が畳に触れる勢いだ。
「何を言っても無駄!」
琴葉が立ち上がり、冷たく言い放つ。深紅の瞳には、かつて見せたあの絶望的な記憶が一瞬よぎり、彼らを危険に晒すことへの明確な恐怖と、自分の中に渦巻く無力感が激しく衝突していた。窓から差し込む朝日が、彼女の蒼白な頬を照らし、その表情を一層複雑で険しいものに見せている。
「そもそも、ルイはともかく、シアはまだ完治していないでしょう。葛城から外出許可が出ていないのに、何を言っているの」
「もう動けます! 手足もバッチリ動くので!」
「あらそう。じゃあ一生懸命走り回っていればいいんじゃないかしら」
「は、走るだけじゃなくて、実戦で使える訓練を……」
「実戦?」
琴葉の声が、一段低くなった。
食堂の空気が、一瞬にして張り詰める。藤崎が用意した温かい抹茶から立ち上る湯気さえ、凍りついたようにその動きを止めたかに見えた。琴葉の深紅の瞳が、シアを、そしてルイを貫く。
「あの戦いで死にかけたばかりの貴方たちが、何を言っているの。次こそ、本当に死ぬかもしれないのよ」
ルイとシアの背筋が、無意識に伸びる。あの——ファロンとの戦いで、珠桜が瀕死の重傷を負い、ルイは三日間意識を失い、全員が満身創痍で澄幽に帰還した、あの日の記憶が、鮮明に蘇ったからだ。食堂の穏やかな空気の中に、ほんの一瞬、硝煙と鉄錆の匂いがよぎるようだった。
琴葉は試すようにルイとシアを見る。しばしの沈黙の後──ルイが顔を上げ、琴葉の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もう二度と、ああならないようにするために言ってるんだ。
琴葉になんと言われようと、俺は外に出る。でも、死にたいわけじゃない。だから、強くなりたい」
そのライムグリーンの瞳には、自らが招いた惨事への悔恨と、それを踏み台にしようとする、たくましい意志が宿っていた。子供のように純粋な覚悟が、琴葉の胸の奥にある古傷をそっと押した。
「それに、それが将来、誰かを助けるかもしれない」
「……」
琴葉は無言のまま、ルイを見つめる。彼女の表情からは怒りや拒絶が引いていき、代わりに深い、計り知れない疲労が浮かび上がってきている。
「私も……!」
シアが、続けた。その声は震えていたが、白銀の髪の間から覗くアメジスト色の瞳は、涙に曇ることなく真っ直ぐだった。
「守られるだけじゃなくて、守りたいです。そのために、もっと強くなりたいんです」
二人の言葉が、静かな食堂に、重く、しかし確かに響く。
藤崎がそっと息を呑み、琴葉の横顔を見つめた。彼女は何かを思い出しているようだった。
長い沈黙が落ちた。
窓から差し込む朝の光が、琴葉の黒髪に柔らかな艶を与え、その輪郭を金色に縁取っている。彼女の深紅の瞳は、二人を見据えたまま、過去と現在、失ったものと目の前にいるものを天秤にかけるように細められていた。
そして——
「……外に出たいのは、貴方たちの勝手よ」
琴葉が静かに口を開いた。
「でも、私が教えることはない。貴方たちに必要なのは、実戦的な技術より先に、基礎的な体術の練度を上げたり、体力をつけること。それなら、響哉に教わればいいでしょう」
「それが……ここ二週間見てもらってたんですけど……」
シアが少し言いづらそうに口籠もる。彼女の指が無意識に巫女装束を模した服の袖を揉んでいる。
「響哉さんって、感覚派で……『こう、バッてやってドーンだ』みたいな説明が多くて……」
「……」
琴葉の眉が、微かに歪んだ。
それは──呆れているのか、あるいは、あまりにも理解できる故の苦々しさなのか。読み取りにくい、複雑な表情だった。
「わかってくれますか、琴葉さん! あの人教えるの下手なんです!」
「知ってるわよ、そんなこと」
琴葉が、珍しく——本当に珍しく、盛大にため息をついた。
「あの馬鹿は昔からそう。感覚で理解して、感覚で実行する。言語化という概念が欠落しているのよ」
「ですよね!? だから琴葉さんに——」
「だからといって、私が教える義理はない」
ぴしゃりと、話を打ち切るような声。
ルイとシアが、再び必死に頭を下げようとした、その瞬間──
「あらあら、琴葉ちゃん。そう冷たいこと言わんでも」
にこにこと慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、藤崎が口を挟んだ。
彼女は琴葉の前に、小さな漆器の皿をそっと置く。その上には、透き通るような三色団子が三本、綺麗に並んでいる。それを見て──琴葉の深紅の瞳が、かすかに、しかし確かに輝いた。
──この藤崎という女性は、澄幽が作られた当初からここにいる、古参中の古参。琴葉が澄幽に辿り着いたその日から、彼女の全てを見届けてきた。琴葉が無意識に手を伸ばす好物、思考の隙となる弱点、そして決して語ろうとしない抱えた想いさえ、全てを知り尽くしている。
「この子らもね、ファロンはんとの戦いの後、毎日毎日、診療所で一生懸命リハビリしてはったんよ。葛城医師に『無茶すんな!』って怒鳴られながらも、早く動けるようになりたい、強くなりたいって、歯を食いしばってはった」
「……」
「それにほら、琴葉ちゃんずっと言ってはったやろ? 『私が目を離したせいで』とか、『私が先にファロンを倒していれば』とか、って」
藤崎の柔らかな、しかし芯のある言葉に、琴葉の細い指が湯呑みの縁でわずかに震えた。まるで、彼女の胸の奥にしまい込んだ自責の念が、外部から揺さぶられたかのようだ。
「あの日、全員が生きてここに戻ってこれたのは、この子らの力もあったからやと思うねん。それなのに、『すごい』って褒めることすらできん琴葉ちゃんが、哀れやなぁ」
ルイとシアが、一斉に琴葉を見つめる。
琴葉は二人の熱い視線から顔を背け、窓の外の穏やかな庭園を見やり──小さく、しかし鋭く、「ちっ」という舌打ちをした。
「……卑怯な手を使うわね、藤崎」
「あらぁ、何のことかしら。うちはただ、団子でも食べてほっこりしてもらおうと思って」
藤崎がとぼけたように首を傾げる。その顔には、穏やかな、しかしどこか確信に満ちた策士じみた笑みが浮かんでいた。彼女はこの瞬間を、朝から待っていたのかもしれない。
琴葉は深く息を吐き、再び団子を見つめる。小豆の赤、ヨモギの緑、白玉の白。
彼女は串をつまみ、少し観察してから、一口だけ口に運んだ。数回噛み、その甘さを確かめるように目を細める。ほんの一瞬、彼女の口元が──無防備に、自然に緩んだのを、ルイとシアは見逃さなかった。
((あ、好きなんだ……))
「……わかったわよ」
その言葉が紡がれると同時に、ルイとシアの顔が、朝日を浴びた花のようにぱっと明るく輝いた。
「琴葉さん!」
「琴葉!」
「——ただし」
琴葉が串を置き、二人をまっすぐ見据える。
その深紅の瞳には、先ほどまでの拒絶とは異なる──戦場の指揮官のような、冷徹で厳格な覚悟が宿っていた。
「容赦はしないから、覚悟しなさいよ。途中で逃げ出そうなんて、許さないから」
「はい! よろしくお願いします!」
「ありがとう、琴葉!」
ルイとシアが、満面の笑みで頭を下げる──これから自分たちが直面する、想像を絶する過酷な現実も予想できずに。
琴葉は残りの団子をもう一つ口に含み、ほんのわずかだけ、表情を綻ばせた。それは、自分自身の心の弱さへの自嘲なのか、それとも彼らの無邪気な決意への、かすかな期待なのか。
その横顔を、藤崎が満足そうに、温かい目で見つめている。
窓の外では、澄幽の穏やかな朝が、いつもと変わらず、ゆっくりと過ぎていく。小鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音だけが聞こえる。
──この完璧な平穏が、血と汗と涙に塗り替えられるまで、あとわずか一時間。




