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第四十話 血の痕と涙の温もり - 2

「十分にも満たない、本当に僅かな対話だった。その後──私は、彼を斬った」


 珠桜の声は、その事実を述べるのに必要最低限の力しか込められていなかった。だが、その言葉の一音一音には、鉄の錆びたような重さが付きまとう。

 ルイは息を呑んだ。珠桜の瞳をじっと見つめる。そこには深い後悔と、癒えることのない痛みが宿っている。


「彼の言っていた"親友"というのがファロンのことだと気付いたのは、君をイージス・コンコードの保護施設から、澄幽に移すことが決まり……彼が本性を表した時だった」


 珠桜は瞳を閉じる。思い出したくない記憶を、無理やり引きずり出すように。


「君を澄幽で保護することに対して、ファロンは激しく反対した。だが、ナサニエルさんとの約束がある。他の幹部からも了承を得ていたから、ファロンの意見は却下された」


 一拍、沈黙が落ちる。


「だけど、ファロンにとっては、君の存在が理想を現実にするための鍵だった。横取りされるわけにはいかなかったんだろうね」


 珠桜の声が、僅かに震えた。


「そして……イージス・コンコードの全ての施設が、ファロンの異能により全て変質させられ、そこにいた人々は──全員、亡くなった」

「……っ、そんな……無茶苦茶な」

「そのことは、本当よ。私も知ってる」


 受け止めきれないルイに対して、琴葉が静かに言葉を添えた。窓辺に立つ彼女の深紅の瞳が、確かな証人として二人を見つめている。

 ──心底、ゾッとした。ファロンに従い、珠桜をあのまま殺してしまっていたらと思うと。


「信じるも、信じないも、君次第だ。それを咎めるつもりは毛頭ない」


 珠桜はきっぱりと言い切った。しかしすぐに、言葉を探すように間を置く。


「ただ……」

「ただ……?」


 彼はゆっくりと顔を上げ、ルイの目をまっすぐに見つめた。


「君には……これからも澄幽にいてほしい。君を利用したいわけじゃない。君を幸せにしてあげたいんだ」


 その言葉は、懇願に近かった。


「最初は、ナサニエルさんに頼まれたから──そう思っていた。でも、君がずっと澄幽を守りたいとひたむきに努力する姿や、傷つきながらも立ち上がる姿を見続けてきて……それはいつの間にか、私自身の切なる願いに変わっていた」


 珠桜の声が、微かに、しかし確かに震える。胸の包帯に、新しい赤い染みが滲み始めている。


「……でも、珠桜さん……俺は……」


 ルイの目から、再び、堪えきれずに涙が溢れ出した。彼は拳を握りしめ、震える肩を必死に堪えようとする。


「君のせいじゃない」


 珠桜はきっぱりと、しかし優しく遮った。


「でも……!」

「私が……恐れたのが悪かった」彼の声が次第に弱くなる。「真実を告げることを、ずっと先延ばしにし続けた。どうか、気負わないでほしい……といっても、難しいだろうけど」


 珠桜は一度、深く息を吐いた。


「君以上に、私は酷いことをした。君の父さんの命を奪い、その真実を隠し続けた。謝るべきは、私の方だ」


 その言葉は、最高執行官でも、澄幽の指導者でもない。一人の、過ちを犯し、傷つけ、そして今、赦しを乞う不完全な人間の、心からの謝罪。


「本当に……すまない。君さえよければ……これからも、ここにいてくれないかい?」

「……俺は」


 ルイの声は、涙でかすれ、砕けている。言葉を紡ごうとするたびに、胸が痛んだ。


「珠桜さんのこと……信じたい。でも、まだ、本当のことが……全部、わかったわけじゃなくて……」

「時間をかけていい」


 珠桜は優しく微笑んだ。痛みで歪んだ、それでも温かな笑みだった。


「君が答えを見つけるまで、傍にいさせてほしい。支えさせてほしい。見返りも、何も求めないから」


 彼は包帯に覆われた手を、そっとルイの頬に伸ばした。涙を拭うように、しかし触れるか触れないかの距離で。


「君の幸せを、私はただ願い続ける。それだけが、今の私にできる贖罪だから」


 その瞬間、ルイの中で長く張り詰めていた弦が、音もなく切れた。

 彼はベッドに駆け寄り、慎重に、そして強く珠桜に抱きつき、わずかに血の匂いがするその胸に顔を埋めて──声を押し殺すように、しかし全身を震わせて泣いた。

 珠桜は、息を詰まらせながらも、その小さな震える背中を優しく包み込んだ。鋭い痛みが傷を走り、一瞬顔を強く歪めたが、すぐにその表情は苦痛よりも深い安堵に満たされていく。


 窓辺に静かに立っていた琴葉が、そっとカーテンを引いた。午後の眩しい光が柔らかな影に濾過され、診療所の白い部屋全体が、現実から少しだけ隔離されたような、静謐な空間へと変わった。

 彼女は音もなく扉へと向かい、最後に一度だけ二人を振り返った。その深紅の瞳には、複雑な感情が揺れている。安堵と、かすかな羨望と、そして──長い時を経てもなお癒えない、自分自身の傷への痛み。


 扉が、ほとんど気配もなく閉まる。


 消毒液の匂いが残る清潔なベッドの上で──二人は、静かに寄り添い合っていた。

 点滴の薬液が、一滴、また一滴と、微かな音を立てて落ちていくだけが、凍ったような時間の中を、ゆっくりと確かに流れていることを告げていた。

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