第四十話 血の痕と涙の温もり - 1
数時間後。
ルイは琴葉に頼み、車椅子に乗せられて珠桜の部屋を訪れた。
ベッドに横たわる珠桜の姿は、彼の記憶にあるそれとは似ても似つかないものだった。
顔には生気のない蒼白が張り付き、胸には出血を滲ませる厚い包帯が幾重にも巻かれている。点滴の管が静脈へと繋がれ、薬液が一滴、また一滴と、かすかな音を立てて落ちていく。それが、彼の生命をかろうじて繋ぎ留めている唯一の証のようにも思えた。
「珠桜さん……」
「ルイ」
珠桜が僅かに首を動かし、かすれた声で微笑んだ。
「……目が覚めたようで、よかった」
その弱々しい笑顔が、ルイの胸を鋭く締め付けた。あの銃弾を受けてなお、真っ先に自分を案じてくれる——その優しさが、余計に罪悪感を掻き立てる。
「俺のセリフです……」
声が詰まった。視界が急にぼやけ、温かいものが頬を伝い落ちる。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、どうにか自分を保とうとする。
「ごめんなさい……俺……俺が珠桜さんを、殺すところでした……」
あの時——ファロンの言葉を信じ、珠桜に今まで騙され利用されてきたのだと思い込み、銃口を向けてしまった。その事実が、今も彼の内臓を刃物で掻き回すように疼く。
珠桜はゆっくりと、重そうに手を上げた。包帯に覆われた指先が、ルイの震える拳に、かすかに触れる。その手は冷たく、けれど確かな温もりを持っていた。
「私のせいだ。君に……大切なことを隠していた。この結果は、全て私の責任だ」
ベッドの傍に置かれた椅子を、琴葉が静かに引き寄せる。ルイは車椅子からゆっくりと立ち上がり、よろめく足取りでその椅子に腰を下ろした。琴葉は一歩引き、窓辺に佇んで二人を見守る姿勢を取る。
重い静寂が流れる。窓の外から差し込む午後の光が、床に細長い影を落としていた。塵が光の帯の中をゆっくりと舞い、まるで時間さえもが慎重に歩を進めているかのようだった。
珠桜は深く息を吸った。傷に響いたのか、一瞬顔を曇らせる。だが、その瞳はしっかりとルイを見つめていた。
「……話そう。すべてを。君に、聞いてほしい」
その漆黒の双眸には、長く隠し続けてきた真実を曝け出す覚悟があった。苦しみ、悔恨、そしてほんのわずかな——赦しを乞うような哀願が、複雑に絡み合っている。
ルイは何も言わず、ただ静かに頷いた。その目にはまだ涙の痕が残っていたが、そこにあるのは憎しみではなく、真実を受け止めようとする覚悟だった。
◇◆◇
──それまでは、"最高執行官"という大層な役職といえど、その実務は喧嘩沙汰や小規模な暴動を鎮める程度のものだった。
初めてあの部屋に案内され、鉄錆と消毒液が混ざり合った重い空気を吸い込んだ時──脊髄を駆け下りるような悪寒と共に襲ってきた吐き気を、今でも鮮明に覚えている。
珠桜は静かに扉をくぐった。
「……」
部屋の中央で手枷をつけられた男は、一見穏やかで、どこか疲れ果てた顔をしていた。深緑の髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれている。だが──
(この人は……異能で、人を殺した)
それは紛れもない事実だ。
数日前、フランスのとある廃墟で、強大な星溶粒子の放出現象が記録された。駆けつけたイージス・コンコードの職員が発見したのは、彼──ナサニエル、そして息子ルイ、そして妻エレオノールの三人。エレオノールはその場で死亡が確認され、ルイは意識不明の重体で保護されたという報告が、珠桜の手にした書類に記されていた。
沈黙が続く。
──最初に口を開いたのは、ナサニエルだった。
「……処刑というのは、もっと手を下す者が責任を感じないよう仕組まれるものだと思っていましたが」
かすかに笑みを浮かべる。その表情には、自嘲とも諦観ともつかない影が潜んでいた。
「こんなに若い方が……可哀想に」
「勝手に喋ることは許可されていない。慎め」
珠桜の側に立つ護衛官の冷たい声が、コンクリートの壁に反響する。
「……すみません」
短いやり取りの後、護衛官は足早に部屋を出ていった。異能殺人犯が暴れ出した時に巻き込まれたくない──当然の判断だ。重い鉄扉が閉まる音が、最後の審判の鐘のように響いた。
珠桜は手にした書類を見下ろし、声を絞り出す。
「ナサニエル・クレルヴォー。貴方の罪は──」
「……妻を、殺しました」
その告白は、あまりにも静かで、乾いていた。全ての感情が燃え尽きてしまった後に残る、灰のような声。
「……それは、なぜ?」
「なぜ……ですか」
ナサニエルは一瞬、遠くを見つめた。
その目に揺らめく苦悶の影が、何を映しているのか──珠桜には推し量ることしかできない。だが、それが妻の息を引き取った決定的な瞬間へと直結していることだけは、痛いほど伝わってきた。
「彼女を守りたかったのですが……できませんでした」
珠桜には、その言葉の意味が理解できなかった。
守りたかった? 現実として、彼の手によって妻は殺されているのだ。精神鑑定に異常はない。ならば、これは詭弁か、あるいは──
(考えても無駄だ)
珠桜は静かに心を閉ざした。目の前の男は、確かな証拠と本人の自白がある犯罪者にすぎない。感情に流されてはならない。それが、自分の職務だ。
「……何か、言い残したいことは」
「二つ……あります」
彼の目に、かすかな光が灯った。最後の、か細い希望の灯り。全てを失った男が、それでも最後に託したい何かがある──そういう目だった。
「どうぞ」
「……息子がいます。コンコード政府が、保護してくださったでしょう」
ナサニエルの声が、初めて微かに震えた。
「もし、叶うのなら……あの子が大きくなり、幸せを見つけられるように……どこかで、そっと見守ってはいただけませんでしょうか」
珠桜は少し間を置いた。その沈黙の中で、ほんの一瞬だけ、目の前の男が凶悪な犯罪者ではなく、ただ子を想う一人の父に見えた。
「……善処します」
「ありがとうございます……最高執行官様」
ナサニエルは深く頭を下げた。その姿は、もはや凶悪な犯罪者というより、全てを失い、ただ赦しを乞う父だった。
無責任だっただろうか。だが、彼の息子に罪はない。政府も、乱暴に扱うことはないだろう。ただ──
(彼の息子さんが大人になる頃に、この世界はまだ存在しているのか……幸せになれる、そんな余裕があるのか……)
答えは、出なかった。
「もう一つは?」
ナサニエルはしばし沈黙し、唇を噛んだ。次に口を開いた時、その声には複雑な悔恨が絡みついていた。
「……私には親友がいました。彼は……争いのない世界を望む、優しい男でした。ですが、過去の戦争で深く心を痛め……ついに、壊れてしまった」
ナサニエルの目つきが変わった。監獄の中にいながら、今は遠くにいる誰かを見つめるような、切迫した視線。
「私は……彼のことも、救いたかった。けれど、叶わなかった」
彼は珠桜をまっすぐ見据え、言葉を継いだ。
「もしも……彼が再び狂気に囚われ、罪もない人々をその闇に巻き込もうとしたなら……どうか、止めてください。それが、私からの最後の願いです」
その言葉は、懇願というより、遺言のような重みで処刑用の部屋に落ちた。珠桜は男の瞳に、狂おしいほどの友情と、絶望的な無力感が入り混じっているのを見た。
そして彼は、静かに目を閉じた。全てを託し終えた者の、深い疲労とわずかな安らぎを浮かべて。
まるで──自ら、審判の時を待つように。




