第三十九話 目覚め、診療所にて - 2
ルイはその言葉を受け止め、胸の中で繰り返す。そして、次に浮かぶのは、あの金色の地獄絵図の中で共に戦った仲間たちの顔だった。彼らはどうなったのか。自分だけがここにいるのではないはずだ。
「みんなは……シアたちは?」
ルイの声は、まだかすれているが、少しだけ力が戻ってきた。彼は琴葉の横顔を見つめ、答えを待つ。目には、仲間の安否を確かめたいという強い願いが滲んでいる。
琴葉はゆっくりと視線を戻し、ルイのその真っ直ぐな眼差しを受けて、ほんの少し表情を和らげた。
「無事よ。全員が、あの夜、あなたと一緒にここに帰ってきた」
彼女は言葉を続け、一つひとつ、確かめるように名前を挙げていく。
「響哉もシアも律灯も、みんな包帯だらけで。響哉は右腕が動かず不機嫌だし、シアは火傷の塗り薬と痒みでずっと悶えているわ。律灯は致命的な傷が少なかったから、もう動き回っているけれど、葛城先生に何度も『安静に』と怒鳴られている」
その声は、淡々としながらも、ほんのわずかに震えが混じっているようにルイには聞こえた。琴葉がここ数日、どれほど心を痛め、緊張していたかを物語るかのようだ。
どう声をかければいいのか、ルイは悩んだ。彼と琴葉は、深く語り合う間柄ではない。むしろ、彼女と対面したのは三日前、狭間に飲み込まれる前が初めてだし、あの時激しく喧嘩をしたのが最後だ。
そんな彼女の、今の微妙な感情の揺らぎに、どんな言葉が適切なのだろう。
『……理想を語るのはやめて。現実を見なさい。貴方たちはここにいればいいの。外の地獄を見る必要はない。知る必要もない。力を持たない貴方たちが外に出ても、無駄死にするだけ。私がまた……手の中で貴方たちの死体を抱くだけ』
あの言葉の裏には、どんな過去の傷が隠されていたのだろうか。
「……誰も、死んでないぞ」
思わず、そんな単純な事実を口にした。
琴葉が動きを止める。彼女はゆっくりと顔を上げ、胸を押さえた。
彼女は口を開き、声ではなく、切り裂かれた肺から絞り出すような空気を一度吐き出した。そして、もう一度、深く息を吸い込み、揺らぎを押し殺すように整えて、囁くように言った。
「……ええ。知ってるわ」
その声は、初めて、氷のような硬さが溶け、ほんのりと柔らかく聞こえた。それは、自分に言い聞かせるような、かすかな安堵の吐息にも似ていた。
沈黙が一瞬流れる。ルイは続ける言葉を探す。
「……お前、外に出るなって言ってたよな」
「ええ」
「それは、受け入れられない」
琴葉は無言でルイを見つめた。その目には、理解しようとする困惑と、やはりどこかで諦めにも似た感情が交錯している。
「俺だって、ここを守りたい。し……外に出て、世界を知りたいんだ」
「世界を……?」
「ああ。珠桜さん与えられたものだけじゃなくて、自分の目で、自分の足で、世界を知りたい。失われてしまった過去の真実とか、今、外で生き残っている人たちがどんな風に暮らしているのか……とか」
琴葉はほんの少し、眉を顰めた。
「……意味が分からない。死ぬかもしれないのに」
「死なない」
ルイの答えは速く、確信に満ちていた。
「珠桜さんが……身の守り方を教えてくれた。戦い方も、逃げ方も。どんな敵が来ても、生き延びて戻ってくる方法を。それに、戻ってきたい場所がある。守りたい大切な人が、ここにいる。それが、何よりの理由だ」
琴葉は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。彼女の表情は複雑に曇り、ルイの言葉を咀嚼しようとしているようだった。
長い沈黙が、診療所の静かな空気を満たす。窓の外では小鳥のさえずりが聞こえる、あまりにも平和な午後だ。
ようやく、彼女は口を開いた。その声は、どこか遠くの、失われた何かを見ているような、深く寂しげな響きを帯びていた。
「……そう。そう、なのね」
彼女は少し目を伏せ、それから再びルイを見た。その目には、まだ迷いが残っているが、ある種の決意も見えた。
「病人だから……今は、怒らないであげる。でも、怪我が治って、無茶をしようとする時には覚悟なさい」
その瞬間──
「──いい加減にしろ、珠桜!!」
隣の部屋から、雷のような怒鳴り声が壁を突き破ってきた。
ルイと琴葉が思わず顔を見合わせた。琴葉の眉に、ほんのわずかだが、困り切ったような筋が寄っている。
「まだ立とうとすんなって言ってんだろうが!! 縫合がまた解けるぞ!!!」
「ちょ、ちょっと待って、葛城! 今、隣の部屋でルイ君の声がした気がして……」
「黙れ!!! 寝てろ!!!」
床を踏み鳴らす重い足音。おそらく医師・葛城が、無理に起き上がろうとする珠桜を、毛布でぐるぐる巻きにでもしているのだろう。ガサッという布の音と、小さな「むう……」という抵抗らしい声が混じる。
「あれは……」ルイが困惑した声を漏らす。
「今日はずっとあんな感じよ」琴葉がそっと目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。その声には諦めが滲んでいる。
「この傷の深さでよくもまあ戦いやがったなァ!? あともう少しで失血死!! だったんだから! な!」
「死ぬ前には大人しくするつもりでした!!」
「滅茶苦茶だなボケェ!! てめえは澄幽のトップだぞ! その命はてめえひとりのモンじゃねえんだからな!!」
「はい、申し訳……ありません……」
珠桜の返事は、いつもの凛とした響きを失い、絞り出すように小さかった。るで叱られる子供のように。
「……あれ、次こっちの部屋にも来るのか?」
「さぁ」琴葉がそっと肩をすくめる。「大人しくしていれば、見逃してくれるかもしれないわ」
葛城の怒声が、今度は診療所全体──いや、澄幽全体を揺るがすような勢いで響き渡る。
「てめえは一ヶ月そこから動くな! 異能の使用も禁止! いいな!!」
「はぁい……」
「声が小さい! わかったか!?」
「はい!!」
珠桜の追い打ちをかけられた返事が、少しだけ力強く聞こえた。ルイは思わず口元を緩めた。
「珠桜さんも、怒られるんだな……」
「当然よ」琴葉が微笑む。「どんな英雄も、どんな指導者も、医師の前では患者でしかないもの」
廊下を踏みしめる、力強い足音が近づいてくる。まるで次の獲物を探す猛獣のようだ。
そして、この部屋の扉が、ためらいなく勢いよく開かれた。
「ルイ! どうやら意識は戻ったようだな!」
葛城がずんと入ってきた。白い外套の胸元には、今しがたの怒号のせいか、少し乱れた聴診器がぶら下がっている。その表情は岩のように厳しいが、鋭い眼光の奥に、ほんの一筋の安堵の色が覗いていた。
「……はい」
ルイが素直に頷く。しかし葛城の安堵は一瞬で消え、次の瞬間には烈火のごとく燃え上がった。
「てめえ!! 自分の異能の限界が分かるまで、ポカスカ使うんじゃねえぞ!! ボケ!!」
(なんでこの人はこんなに口が悪いんだろう……)
「返事ィ!!」
「はい!!!」
ルイの返事が部屋に響く。葛城はそれに満足したように「ん」と鼻を鳴らし、鋭い視線を琴葉に向けた。
「琴葉、こいつらを少しでも暴れさせてみろ。監督不行き届きとして、てめえの首を絞めてやるからな」
その言葉は、冗談のようでいて、目元に一瞬光る鋭い光は本気だった。医師として、そしてこの避難所の年長者としての、揺るぎない責務の現れだ。
琴葉は軽く眉を上げただけで、無言で小さく一礼した。それを見届けると、葛城はくるりと背を向け、白衣の裾を翻して部屋を出ていった。
ドアが静かに、しかし確実に閉まる音と共に、部屋に張り詰めていた重い空気がふっと抜けていくのがわかった。まるで嵐が過ぎ去った後の、静かな凪のような安堵が、二人の間にゆっくりと広がる。




