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第三十九話 目覚め、診療所にて - 1

 ルイの意識が、深い水底から、ゆっくりと浮上してくる。


 体が鉛のように重い。全身の関節が軋み、筋肉が疼く。しかし、その痛みそのものが、確実に生きている証だった。瞼を開けようとするが、重くて開かない。まるで接着剤で固められているようだ。

 だが、音は聞こえた。規則正しい、低いビープ音。生命維持装置か、あるいはモニターの音。そして、近くで誰かが動く、かすかな衣擦れの音。呼吸の音も、浅く、しかし確かにある。


「……ルイ」


 冷たい声。しかし、その冷たさは氷のような鋭さではなく、むしろどこかよそよそしく、緊張を隠したような、聞き覚えのある、温度のない音。


 ようやく、瞼がわずかに開く。視界は白くぼやけ、光の渦のように回っているが、徐々に焦点が合っていく。

 まず見えたのは、無機質な白い天井。そして、窓から差し込む、塵の舞う柔らかな午後の日差し。カーテンが微かに揺れている。


 そして、ゆっくりと視線を動かし、ベッドの隣に座る、一人の人物の姿を認識する。


 深紅のリボンで結い上げられた黒髪。鋭くも美しい横顔。

 琴葉だ。

 しかし、狭間に飲み込まれる前に感じた、あの冷たく突き放すような威圧感や、確固たる自信はない。彼女の眉はわずかに顰められ、長い睫毛の下の目は、自信がなさそうに、あるいは何かを深く悩んでいるように、自分の膝の上に組んだ手を見つめている。


「……琴葉」


 声はかすれ、ひび割れている。喉が焼けつくように乾ききっていた。

 琴葉がゆっくりと顔を上げる。長い睫毛が微かに震え、彼女の深い瞳がルイとしっかり合う。その目には、ほんの一瞬、目が覚めたことへの安堵の色が浮かび、すぐに深い疲労の影に覆われた。そして、その奥に、どこか言いようのない後悔のような、自分を責めるような情感が、かすかに渦巻いているのが見えた。


「……目が覚めたのね」


 彼女の声は、いつもの冷静さを装いつつも、わずかに震えていた。

 ルイはコクリと小さく頷いた。それだけの動作でも、首の筋肉が悲鳴をあげる。


「悪いわね、私で。みんな絶対安静だから、動ける人がいないの」


 琴葉はそう言いながら、傍らにある水差しに手を伸ばし、コップに水を注ぐ。その動作は、無意識にぎこちなさを隠そうとするかのようだった。


「ここは……」


「澄幽の診療所よ」琴葉が静かに答える。彼女はコップをそっとルイの口元に近づけながら、続けた。声には、いつもの鋭さや余裕はなく、ただ事実を淡々と伝えるだけの、疲労に満ちた平坦な調子だ。「三日前に、あなたたちが澄幽に戻ってきてから、あなたはずっと眠ってた」


「三日……」

「多分、異能の使いすぎ」


 ルイはゆっくりと、包帯に覆われた自分の体を見下ろす。左腕から肩、胸にかけては分厚い包帯が幾重にも巻かれ、その下からは鈍い、熱を持った疼きが絶え間なく続いている。右腕の静脈には点滴の針が刺さり、透明な冷たい液体が、一定のリズムで体内に流れ込んでいる。体をほんの少し動かそうと腹部に力を入れると、全身の傷が一斉に鋭い警告の痛みを発する。これが、あの戦いを生き延びた、生々しい代償なのだと思わず唇を歪める。


「珠桜さんは……」


 ルイがかすれた声で尋ねる。それが最優先の質問だった。

 琴葉は一瞬、目を伏せたが、すぐに顔を上げて答える。


「隣の部屋で休んでいるわ。今朝、ようやく目を覚ましたけど……傷が深くて、痛みでなかなか動けないみたい。葛城先生が、今も手当てをしているところよ」


 琴葉はコップをそっとルイの手に持たせようとするが、彼の指が震え、包帯に巻かれた掌がうまく閉じないのを見て、わずかに眉をひそめた。そして、ためらうことなく自らの手でコップを支え、慎重にルイの口元へと運んだ。冷たい水が、ひび割れて血の気のない唇を潤し、焼けつくような喉をかすかに和らげる。ルイは無意識に喉を鳴らし、少しずつ飲み込む。

 ほっと一息つくが、ルイの表情は次第に曇っていった。彼は目を伏せ、ベッドの白いシーツの微かな皺を、苦しげにじっと見つめる。顔色はまだ青白く、瞳の奥に深い影が落ちている。


「……珠桜さんの怪我は、俺のせいなんだ」


 その言葉は、重く、自らを切り裂くような響きがあった。拳を握ろうとするが、包帯に阻まれて力が入らない。無力感が、罪悪感をさらに増幅させる。

 琴葉の手が、コップを置く動作の途中で、ほんの一瞬、微かに止まる。


「……」

「俺が、珠桜さんを撃ってしまった。裏切った。そのせいであんな深い傷を……あの戦いの、あの混乱の原因は、全部俺が……」


 ルイの声は震え、喉が詰まる。記憶が鮮明すぎて、銃口を向けた瞬間の珠桜の──驚きよりも深い、何かを見失ったような悲しげな表情、そしてその後に続く爆発的な混乱と、全てを飲み込む金色の狂気が、脳裏を鮮烈に駆け巡る。自分が引き金を引かなければ、あんなことにはならなかったかもしれない。



 一瞬の静寂。そして、


「──その話は、珠桜とすればいいわ」


 琴葉は静かに、しかし確かに言った。彼女はコップを傍らの小さな台に戻し、ゆっくりと椅子に深く腰を下ろす。視線はルイから少し外れ、窓の外の、風にそよぐ穏やかな木々の梢を、何も考えていないように見つめている。午後の光が彼女の側面を柔らかく照らし、長い睫毛に影を作る。


「私は、咎めない」


 ルイは驚いて琴葉の顔をまじまじと見た。彼は、裏切りや不誠実を何よりも嫌いそうな琴葉が、一番激しく怒るか、冷たく突き放すと思っていた。それが、彼女の性格だという固定観念が、頭にこびりついていた。


「え……? い、一番お前が怒りそうだと思ってたんだけど……」

「あなたにちゃんと真実を伝えるべきだと、私は珠桜に一度、強く言ったことがある。隠し続けることが、いつか大きな歪みを生むと」


 彼女は、珠桜の過ちを、傍で見続けてきた一人だった。

 琴葉は少し間を置き、言葉を選ぶように続ける。その声には、怒りや非難の調子はなく、深い疲労と、複雑に絡み合った諦念、そしてある種の哀れみにも似た情感がにじんでいた。


「……珠桜の自業自得よ。あの人が全てを隠し、独りで背負おうとした結果がこれなのだから。あなたが銃を向けたことも、全てを含めて。あの人は、そういう選択をする可能性さえも、最初から計算に入れて……いや、甘く見ていたのかもしれない」


 ルイは言葉を失った。琴葉のその反応は、彼のあらゆる予想をはるかに超えていた。咎められると思っていた自分が、逆に庇われるような、複雑な立場に置かれた。


「それで……いいのか? あと一歩間違えたら……珠桜さんは、俺の手で……」

「その一歩を、間違えなかった。あなたも珠桜も、それに他の人たちも、皆、生きて帰ってきた。それが全てよ」


 琴葉はルイをまっすぐ見た。その目は、まだ疲れていて、影が差しているが、確かな光を宿していた。


「……私は、それで十分」


 琴葉の言葉が静かに部屋に落ちる。彼女は再び窓の外を見つめ、指先で膝の上で微かに震える自分の手を、無意識に握りしめていた。

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