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第三十八話 待ち侘びし刃は重き足音を聞く

 ──澄幽。


 琴葉は、異能者の気配──それも、忌まわしいまでに記憶に刻まれた、あの二人の気配を感じた瞬間、思考よりも先に身体が動いた。次の瞬間、彼女は澄幽の静かな裏門の前に立っていた。長い黒髪を結い上げる深紅のリボンが、突然の移動の余波で微かに揺れ、その先端が肩に触れる。

 心臓が、警戒の鼓動を高鳴らせる。因縁のある、"あの二人"がついにこの隠れ里を見つけ、狙いを定めたのか。珠桜が最も危惧していた事態だ。胸の奥に冷たい鉄塊が沈み、同時に、覚悟の炎が静かに灯る。


 ──だが、幸か不幸か、そこに立っていたのは紛い物だった。


 二人の少年少女。黒いゴシック調の衣装をまとった二人組。

 本物の彼らと瓜二つではあるが、二人の瞳にあの狂気がない。整えられた、ただの、精巧な人形。


(……ファロンね。ヤツが作った木偶……ってところかしら)


 ただ、木偶だからといって、戦闘能力がないわけではない。彼らが本来持つはずのない、ファロンの、有を別のものへ変質させる異能が、二人の掌から迸る。澄幽の穏やかな空気を切り裂き、静かな裏庭を穢れた黄金に染め上げんと襲いかかる。


(そんなの、許すわけない)


 琴葉は微かに目を細める。そして、ほんの一瞬、魔力を身体の隅々に巡らせる。魔法による身体能力の極限増強。筋肉が微かに軋む音が、彼女だけに聞こえる。

 地を踏みしめ、蹴った。土が凹む音もない、幽霊のような加速。次の瞬間、彼女は二人の"偽物"のほぼ真ん中、そのわずかな隙間にいた。距離など、最早意味をなさない。


 横凪。刀身が穏やかな午後の陽光を反射し、一筋の銀色の弧を描く。空気を斬る音さえ遅れて、一人目の首が、わずかに浮き上がる。断面からは血ではなく、金色の微粒子が噴き出す。

 もう一人に、倒れかかる最初の偽物の体を盾のように押し付けながら、刀を翻す。刃先が分厚い革のコートを易々と貫き、偽物の心臓めがけて正確に突き刺す。手応えはあるが、生身の温もりや弾力はない、詰め物のような鈍い感触。

 とどめに首を落とす。二つの頭部が、ほぼ同時に地面に転がり、金色の粒子を残して形を失っていく。


 瞬きの間、一瞬の出来事だった。偽物たちは異能を完全に発動する間もなく、形を成す前に散った。周囲に広がりかけた金色の侵食も、霧散する。


「珠桜……」


 琴葉が小さく呟く。普段の癖で、刀の切っ先を軽く振るい、目に見えない汚れを落とすようにしてから、鞘に収める。その動作は流れるように自然だが、手の動きにほんのわずかな震えがあった。

 珠桜を守らなければいけなかった。他の面々も。本来なら、自分が戦いに行き、ファロンを殺すべきだった。それが──出し抜かれてしまった。彼らは攫われ、自分は澄幽に残された。


 それならば、彼らが不在の間、澄幽と、ここに暮らす全ての人々を、誰よりも強く、確実に守らなければいけない。それが、今の自分にできる、最大の、そして唯一の戦い方だ。


 死体──いや、紛い物の残骸を、掌から溢れる青白い魔法の炎で包み、静かに消滅させ、跡形も残さないようにする。外の異物は、この場所には要らない。

 ほんの少し深く息を整え、次の瞬間、琴葉は人々が集う食堂へと転移した。


 裏をかかれないよう、側にいなければいけない。

 だが、同時に、慌てた様子は微塵も見せないように。平然と、日常のふりを続けなければ。



「あらぁ、琴葉ちゃん! 来てくれはったのねえ! 今、ご飯をよそいますからねぇ! 今日は里芋の煮っころがしよ、ほっこり美味しいわ!」


 食堂の奥から、頭に手拭いを三角に折ったものをのせ、洗いざらのエプロンを着た穏やかな女性──藤崎が、にこやかに顔を覗かせる。手には大きな黒い鍋が握られ、湯気とほんのりとした醤油の香りが漂ってくる。

 琴葉は一瞬、目を細めて室内を見回した。他に三人。机に向かって何やら書類を広げている医師の葛城、窓辺で小さな金属部品を手入れしている鍛治師のシン、そして──熱心に勉強をしている、シアによく似た少年。確か、彼女の弟、リアンだ。澄幽の表にいる全員が、無事にここにいる。ほんの少し、胸のつかえが降りる。


「珍しいな、琴葉がここに顔出すなんて」葛城が顔を上げて言った。

「……ご飯はいらないけど。少しここにいさせてちょうだい。外の空気が、ちょっと……冷たかったから」琴葉は静かに、ほんのりと口元を緩めて微笑み、暖炉の傍にある古びた木製の椅子に腰を下ろす。その背筋は、相変わらず真っ直ぐで、少しも崩れない。


 暖炉の炎が、琴葉の優美な横顔を柔らかく照らし、長い睫毛の影を頬に落とす。跳ねる炎の音と、鍋の煮える音、葛城のペンの音、たまに、リアンが唸る声が、穏やかに混ざり合う。

 彼女は揺らめく炎を見つめながら、心の中で、繰り返し、静かに祈る。


(珠桜、無事でいて……早く戻ってきて……ルイも、シアも……)

「はい! 琴葉ちゃん!」


 藤崎の明るい声が、琴葉の思考を現実へと引き戻す。彼女は鍋をテーブルに下ろし、琴葉の前にお椀をぽんと置いた。ほかほかと湯気の立つ里芋が、醤油の艶やかな色に染まっている。


「え、私食べないって……」

「お残しは許しまへんでぇ〜!」



 ◇◆◇



 ──結局、日が暮れても、彼らが戻ってくることはなかった。

 夜闇が澄幽を包む中、食堂には暖炉の炎だけが揺らめき、普段ならば賑やかな食卓には、今はもう琴葉と藤崎しか残っていない。二人の間に漂うのは、消えない心配と、何とも言えない不安な空気だった。

 おそらく午後の時間を過ごす中で、藤崎も他の保護対象たちも、珠桜、響哉、律灯、ルイ、シアの不在に気付いている。


「あらぁ? ルイ君とシアちゃんはどうしたのぉ? お夕飯も食べにこないなんて珍しいわ。美味しいもの作っちゃったのに」


 藤崎が大きな木の鍋のふたをゆっくりと閉めながら、心配そうに何度も入口を見つめる。彼女の手元には、不在の五人の分まで取っておいた温かい料理が、湯気を立てて待っていた。


「響哉君がいないのはいつも通りだけど、珠桜様と律灯君もいないわぁ。珍しい組み合わせで出かけたのかしら?」

「……っ、それは」


 琴葉が言葉を詰まらせた。彼女だけが知る重い事情が喉元まで迫るが、それを口にすることはできない。

 その瞬間──彼女の背筋に、鋭い、電気が走るような感覚が駆け抜けた。空間が微かに歪み、魔力が特定のパターンで振動する、覚えのある感覚だ。


(これ、律灯に渡しておいた魔法式の──)


 その直後、



 ドサドサドサッ!



 荒っぽく、重い、何かが地面に無理やり叩きつけられるような音が、食堂のすぐ外、裏庭の方向から聞こえた。それは複数の人間──あるいは重い荷物が転がり込んだような、不自然で衝撃的な音だった。


「な、何の音かしら!」

「っ!」


 琴葉と藤崎はほぼ同時に動き、食堂の扉を開けて外へ駆け出した。冷たい夜気が顔を撫でる。

 月明かりに照らされる中、食堂の前に──無造作に折り重なるように倒れ込んだ、珠桜たち五人の影があった。


「……ぐ、か、帰ってこれましたね」


 律灯が、折り重なった人影の一番下で、歯を食いしばって呟く。その声はかすれ、痛みに震えている。彼の着物は焼け焦げ、ところどころに火傷の痕が見える。


「とりあえずこの二人運ぶぞ。律灯、珠桜様運べ。シアちゃんも怪我診てもらえよ」


 響哉が、片腕を不自然に垂らしながらも、地面に倒れたルイの体を引き寄せ、無理やり背負い上げた。その動きは明らかにぎこちなく、顔を一瞬歪める。ゆっくりと、しかし確実に、診療所の方向へ歩き出した。そのあとを、足を引きずりながらも必死について行こうとするシアが追った。

 律灯も、うなずき、倒れている珠桜の体を自分の体に引き寄せ、ゆっくりと立ち上がろうとする。しかし、彼自身の傷も深く、膝ががくがくと震えている。


 一目見ただけで、その惨状は明らかだった。珠桜は脇腹と背中から多量の出血があり、黒い衣装が暗赤色に濡れ、月光に鈍く光っている。顔面は土と乾いた血で汚れ、目はしっかり閉じられてはいるが、完全に意識を失っている。ルイも同様に、腕に大火傷を負い、皮膚が爛れ、不自然に折り曲げられており、浅く速い呼吸だけがかすかに続いている。響哉、律灯、シアも、意識があり、かろうじて立ててはいるが、響哉は右腕が明らかに機能していない。律灯は目が焦点を失いぼんやりとしており、口や鼻からの出血がある。シアは手足に無数の火傷痕が刻まれ、歩き傷口が空気に触れるたびに痛みで顔をしかめている。


「ああっ!大変!」


 藤崎が悲鳴のような声を上げ、すぐに我に返ると、バタバタと食堂の中へ走り去った。「清潔な布を! お水を! 葛城医師(せんせい)、早く来てくださいーっ!」その叫び声が、静かな夜を切り裂く。


 琴葉は一歩も動かず、ただ、気を失い、血と泥にまみれた珠桜とルイの姿を、固まったように見つめていた。心臓が胸の中で狂ったように打ち、耳元で"紛い物の"血の流れる音が響くようだった。

 そして、重い足取りで彼女の前を通り過ぎようとした響哉を、低く、しかし鋭い声で呼び止めた。


「響哉」

「あ? ンだよ、今忙しい……」


 響哉は焦りと痛みで表情を歪めながら、辛うじて振り返る。

 琴葉は一瞬、言葉を失いそうになる。喉が渇き、声が出ない。それでも、何とか震える声を絞り出した。


「珠桜は……生きてるの?」


 ──頭がぼんやりとしているのか、響哉はほんの一瞬、返答をしなかった。月明かりが彼の疲弊しきった横顔を照らす。だが、すぐに彼は目をしっかりと見開き、琴葉をまっすぐ見た。


「……生きてるに決まってんだろ。死なせるわけあるか」


 響哉の言葉は荒っぽく、短かったが、その奥には揺るぎない確信と、何としても生かし通すという強い意志が込められていた。彼はそう言い残すと、再び重い足取りで、ルイを背負ったまま診療所へと歩き出した。その背中は、傷つきながらも決して折れていない。

 琴葉はその背中を見送り、ようやく凍りついた体が解けるように、一歩、また一歩と、彼らを追いかけた。そして、よろめきながら珠桜を背負おうとする律灯に追いつき、静かに、しかし確かに腕を差し伸べた。


「貸しなさい」


 律灯は一瞬驚いたように琴葉を見たが、すぐにうなずき、支えをゆだねた。琴葉は珠桜の重い体を自分の背中に預け、その冷たさと、まだかすかに続く微かな鼓動を感じながら、診療所の明かりを目指して歩き始めた。

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