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第三十七話 狂気は、散りゆく

 その言葉と同時に、ファロンの身体を中心に、空間そのものが歪み始める。ファロン自身の異能の力ではない。ただ、金色の粒子が爆発的に増殖し、周囲の空気、光、そして"存在"そのものを貪り始めた。

 地面からは細かな砂利が浮かび上がり、空中で金色の結晶へと変質し、やがて粉々に砕けて消える。風が止み、代わりに"無"へと向かう引力のようなものが生じ、周囲のわずかな草木が根本から引き千切られ、金色の塵となって渦に吸い込まれていく。


 響哉が目を見開いた。彼の表情から、一瞬で余裕が消え去った。

 彼の脳裏を、忌まわしい記憶が走馬灯のように駆け巡る──かつてイージス・コンコードの街"丸々一つ"が、ファロンの異能によって、金に変えられた光景。建物が輪郭を失い、人々が叫ぶ声さえも音色を奪われ、すべてが静寂の中に溶解していった悪夢。珠桜と共に──偶然にも、離れたあの光景を目撃した。

 あの時と同じ、いや、それを遥かに上回る圧倒的な粒子の奔流が、今、眼前で発生しようとしている。


 あの時はまだ、ファロンに異能の範疇だった。だが、今のは──


「……星溶粒子が制御できていない……不安定な"変異体"になる」


 響哉が小さく、唸るように言った。

 侵食された空間の一部が、別の場所を侵食する連鎖が始まった。金色の波紋が、ファロンの死体を中心に、次々と新たな侵食域を生み出し、それがさらに周囲を喰らいながら拡大していく。近くの岩が表面から金色に染まり、内部まで侵食が及ぶと、蜘蛛の巣状のひび割れが走り、静かに崩壊して塵となる。枯れ草は一瞬で金色の彫刻のように硬化し、次の瞬間には自重に耐えきれず粉々に散る。熱で燃え上がるような現象さえ発生し、その炎すらもが金色に染め上げられ、硬質な結晶の炎として一瞬輝き、そして砕け散って消え去った。

 世界が、ファロンの最後の怨嗟によって、その存在の基盤から書き換えられ、消去されつつあった。物質を成り立たせる構成がねじ曲げられ、色が失われ、音が吸い込まれていく。


 逃げ場がない。このままだと、この一帯すべてが──変質し、形を失い、最後には何もない"無"へと還ってしまう。



 その瞬間──



「……絶対に……させない」


 かすかながらも、しかし芯の通った確かな声が、金色の崩壊音を掻き消すように響いた。


 気を失っていた珠桜が、ゆっくりと目を開け、重い瞼を持ち上げる。長い睫毛の下から覗く漆黒の瞳は、まだ疲労と痛みに霞んでいるが、その奥に揺るぎない意志の炎が、かすかに、しかし確かに灯り始めていた。

 彼の傷口──腹の深い裂傷はまだ開いており、無理に体を起こそうとするたびに新鮮な血が溢れ出し、衣服をさらに暗紅色に染める。が、その痛みに顔を歪めることさえなく、珠桜は地に付いた手のひらに力を込め、ゆっくりと上半身を起こした。


「ルイ君……ありがとう。少し……休ませてもらった」


 珠桜が、傍にうずくまるルイの肩に、冷たく血のついた手をかける。その触れ方は、支えを借りるというより、むしろ「これから動く」という意思の伝達のようだった。彼はルイの力を借りながら、しかし確実に自らの脚で立ち上がる。膝がわずかに震えたが、すぐに踏みしめて静止する。

 彼のもう一方の手には、あの桜色に微かに輝く刀身を持つ刀が、しっかりと握られている。刃には、いくつかの小さな欠け目と、乾ききらない血の跡がついていた。澄幽の鍛治士が打ち、彼が長年愛用してきた刀だ。異能の武器《絶刃》ではなく、あえてこの刀を選んだ意味が──確実に、ある。



「世界の修復は、実に立派な大義だ──」


 珠桜が虚空──金色の崩壊が渦巻く中心を見据えながら、静かに言葉を続ける。その声には、深い哀しみと、ある種の諦念にも似た響きがあった。彼はファロンの理想の根底にある、歪んだ愛と絶望を見透かしているようだ。


「だが、お前の理想は、違う。お前が目指すのは、修復でも再生でもない。ただの……何の喧騒もない、虚無の景色だ」


 珠桜は深く息を吸い込み、胸の痛みを押し殺すように眉をひそめる。そして、彼は自身の内側へと呼びかけるように、目を閉じた。



「《千華暁星》──力を、貸してくれ……!」


 その呼びかけと共に、突然、珠桜の体が内側から滲み出るような淡い橙の光に包まれた。それは異能の発動というより、ある種の"覚醒"にも似てみえた。光は彼の傷口からも漏れ出し、血を光の粒に変えながら舞い上がる。


「っ……!」


 ルイも思わず目を瞑り、腕で顔を覆った。星溶粒子の量があまりにも多すぎる。周囲の空気が振動し、オーロラの光さえも一時的に霞むほどに眩しい。光の圧力が肌に当たり、微かに疼く。


 やがて、爆発的な光が一点へと収束する。まるで逆再生のように、広がった光が珠桜の中心へと吸い込まれていく。

 そこに立っていたのは珠桜だったが、確かに以前とは違っていた。彼の周囲に、実体のない淡い桜色の花弁が微かに舞い、吐息のように漂っている。手に握られた桜色の刀身には、星屑のような無数の光点が走り、刃文のように刻まれている。それは、刀が何か──あるいは"誰か"の意志と深く共鳴し、新たな段階へと至った姿だった。


「二つ目の……異能、だと?」


 ファロンの理論、常識が揺らぐ音が、声に滲む。


「不可能だ……異能を宿すのは一つのみで……二つはあり得ない……」

「これは、私の力ではないよ」


 珠桜が静かに言う。その声には、深い哀しみと、確かな決意が込められている。それは誇りではなく──重い責務を自覚する者の声だった。



「殺してきた、それと……守りきれなかった者たちの異能を継承できる──いや、継承しなければいけない。それが、私の背負うべき罪の証明と、償いの形だ」


 珠桜が刀を静かに、しかし確固と構える。その動きは、これまでのどの戦いよりも流麗で、無駄がなかった。あらゆる無駄な力が削ぎ落とされ、次の一撃に全てが集約されている。傷口からはなおも血が滴り落ちるが、彼は微動だにせず、しっかりと立っている。その佇まいは、もはや一人の人間を超え、何かの"現象"そのもののような絶対的な威圧感を放つ。


「ファロン。お前の狂気は、ここで終わりだ」

「ふ、ふふ……面白い! まさか、貴様がそれほどまでに欲深い人間だったとは! 貪欲にも、他者の力まで我が物にしようとするとは!」


 ファロンは、狼狽を狂気の笑みで覆い隠す。彼の両手から、より濃密な金色の粒子が噴き出し、周囲の空間そのものを歪め、ねじ曲げ始める。最後の力を振り絞るかのように。


「たかが継承しただけだろう! 借り物の力で、私の理想に抗えると本気で思っているのか!?」

「その通りだ。この力は借り物」


 珠桜は潔く認める。しかし、彼の目は揺るがない。

 彼は過去に葬った無数の異能者たちの"残響"を感じている。それぞれの力、それぞれの想いの重さを。


「彼らが叶えられなかった想いがある。果たせなかった願いがある。守りたかったもの、変えたかった未来が、それぞれにあった。その一つ一つを、私が代わりに果たすまで──私は、決して立ち止まらない」



 ふと、珠桜がルイを見た。その視線は、深い慈愛と、わずかな後悔が混ざり合っている。


「……ナサニエルさんは、親友のことを、元の彼に戻したいと言っていた。


 君のお父さんの力、借りさせてもらうね」

「……!」


 その言葉と同時に、珠桜が動いた。


「《増幅(ブースト)》」


 一閃。


 言葉では表現できない速さで、刀が虚空を斬る。刀身に走る星屑の光が爆発的に輝き、その軌跡に沿って、金色に侵食されていた空間が、まるで布が切り裂かれるように、本来の色と形を取り戻していく。桜色の光が金色を飲み込み、中和し、浄化する。まるで、侵食そのものを"修復"しているかのようだ。


「ならば……!」


 ファロンが、自身の胸を拳で打つ。口から鮮血を吐きだす。それすらも変質の対象──吐き出された血が空中で金色の宝石に変わり、それが核となって、彼の周囲に先ほどとは比べ物にならない巨大な金色の門が出現した。すべてを飲み込む金色の星溶粒子の光が、怒涛のように門の向こうから溢れ出そうとする。それは、彼の生命そのものを燃料にした、最後の暴走だった。


「全て……無に……!」

「珠桜さん!!!」



 ルイの手が、珠桜の背中を支えた。震える指先が、血に濡れた衣服に触れる。


「絶対!! 全て、隠さないで……!! 教えてください!! 父さんのこと、ファロンのこと、珠桜さんのこと……俺、全て、受け止めますから!!」


 ルイの瞳が鮮やかなライムグリーンに輝いた。彼の異能が、無意識に発動する。

 ──増幅。珠桜と、今は亡き父を倣って。無意識にその使い方をする。


 その瞬間、珠桜の刀身に走る光が、柔らかな緑色の輝きを帯びる。優しく、しかし確固たる"修復"の力が、ファロンの暴走する"無"の侵食に、まっすぐに向き合う。

 ファロンの絶叫が響く。珠桜が最終的な一歩を踏み出す。地面を蹴る足音さえも、すべての音を飲み込む金色の轟音にかき消される中で。



「終わりだ、ファロン・ヴォーベール」



 珠桜の刀が、静かに、しかし確実に、異常な星溶粒子の流出の渦の中枢を貫いた。刀身に宿る桜色と緑色の光が、金色の暴流と静かに混ざり合い、中和し、そして霧散させていく。あの巨大な門は、ひび割れ、静かな音もなく崩れ去り、金色の粒子は夜空に吸い込まれるように消散した。


 金色の光が、一瞬で消える。辺りに広がっていた不気味な輝きと、世界を喰らおうとする"無"の圧迫感が、嘘のように消え去る。

 ファロンは、ゆっくりと膝をつき、そしてそのまま横たわるように倒れた。彼の赤く燃えていた瞳は、もはや輝きを失い、ただ広がったまま、頭上に広がるオーロラの虚空を見つめている。最後の吐息が白い霧となって立ち昇り、すぐに冷たい夜風に運ばれていった。



 深い、重い沈黙が訪れる。


 戦いの喧騒が消え、ただ遠くを吹き抜ける風の音だけが聞こえる。オーロラの光が、血と汗にまみれ、傷つき倒れた戦場を、幽玄で揺らめく光のカーテンのように静かに照らす。砕かれた金色の結晶の破片が微かに光り、星屑のように散らばっている。


 戦いは終わった。


 しかし、その瞬間──

 過度な異能の行使と深い傷によって極限まで消耗していたルイと珠桜は、緊張の糸が切れたように、ほぼ同時に意識を失い、その場に崩れ落ちた。ルイは前方へ、珠桜は後方へ。二人の倒れる音が、静寂の中に鈍く響く。


「ルイ!」

「珠桜様!」


 シアが疲労で震える足で駆け寄る。

 律灯も傷ついた体を引きずりながら、必死に主人のもとへと向かう。響哉は、片腕をかばいながら、鋭い目で周囲の警戒を怠らない。ファロンは倒れたが、まだ油断はできなかった。



 オーロラの下、荒れ果てた大地の上で、疲弊し傷ついた者たちだけが残された。


 ──まだ、全てが終わったわけではない。

 しかし、少なくとも今、この瞬間は──歪められようとした世界は、かろうじてその形を保ち、静かに夜を迎えようとしている。

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