第三十六話 金の理に終焉を - 2
「らッ!!」
「チッ……!」
ダガーの切っ先が、ファロンの頬を掠める。一条の赤い線が浮かび上がる。空いた脇腹にファロンが拳で反撃を入れようとするが──その前に、ルイは手のひらでダガーを逆手に持ち替え、ファロンの肩口めがけて刃を突き立てた。
「っぐ、う……!」
鈍い手応えと共に、鋭い痛みがファロンの神経を走る。ルイの足が一瞬止まる。それは、生身の人間に刃物を刺したことへの、本能的な躊躇だった。
その一瞬の隙を、ファロンは逃さない。痛みに歪んだ顔で、ルイの刃を刺した腕を鋼のような握力で掴み取った。そこを起点に、熱い金色の侵食がルイの腕へと這い上がり始める──
「ケッ、そんなにルイ君のことが好きかよ」
突如、軽薄ながらも底に冷たさを秘めた声が横で響いた。大きな影がルイの視界を覆い──その影の主、響哉が、ルイの手から滑り落ちたダガーを空中で掴み取ると、そのまま流れるような動きでファロンへと斬りかかった。
まず、ルイの腕を掴んでいるファロンの手首を、刃が浅く、しかし確実に切りつける。痛みに思わず指が緩む。次に、反撃に出ようとするもう片方の手の手首も同様に斬りつけ、両腕の自由を奪う。ファロンが一瞬、予想外の攻撃に狼狽え、体勢を崩したその刹那、響哉はダガーを深く突き立てる。腹部を貫く鈍い衝撃。最後に、首の致命的な部分──大動脈と気管が走る位置を、寸分の狂いなく刃先で貫いた。
「ぐはっ……!」
ファロンは蹴り飛ばされ、地面に転がる。慌てて首の深い傷に手を当てようとするが、両手首も傷つき、血まみれで思うように動かない。何より、異能を発動させるために必要な「触れる」という動作が、激痛と血で阻まれる。彼の目に、初めて純粋な恐怖の色が走る。
「やっぱ、触れるのが一つトリガーだな。あのゴーグルとか、よく使ってるコインも、手で触ってから変質させてたし」
響哉が冷たく分析する。
「だま゛、れ……ぇ゛……」
ファロンの喉から、血の泡混じりの声が漏れる。彼はなおも、金色の粒子を周囲に発生させようとするが、集中力が致命的に途切れ、まばらに散るだけだ。
「ほい、返すぜ」
響哉が、血で濡れたダガーをルイに向けて差し出そうとする。
だが、ルイも先ほどファロンに掴まれた腕が金色の侵食を受け、肘から先が完全に硬直し、思うように動かせない状態だった。
「持っていてくれないか」
ルイが顔をしかめながら言う。
「あいよ。じゃあ──トドメと行きますか」
響哉はダガーを軽く一回転させ、柄をしっかりと握りしめた。
ファロンは溢れ出る出血箇所──首と腹部の深い傷に対して、なんとか自分の異能を行使し、傷口を焼き潰して止血を試みた。瞬間的に組織を変質させ、仮の塞ぎとしたのだ。だが、その顔は死人同然の蒼白で、呼吸は浅く荒く、明らかに限界が近い。それでも、彼の執念は消えていない。
ルイと珠桜の方向へ、震える手を伸ばす。再び、彼の指先は微かな大きさの宝石を掴む。それが空中で一瞬で溶解し、今度は太く、絞り上げるように確実な捕捉を狙う無数の触手へと変化し、蛇のようにうねりながら空を泳ぐように伸びてくる。最後の力を振り絞った、執拗な捕縛だ。
「させない!!」
シアは強く、心の底から願う。自分の力でファロンに直接対抗できるとは思わない。冷やしてどうにかなるとは思えなかったから、先ほどはあえて炎を使ってみた。
どうにかして、彼の動きをほんの一瞬でも止めなければいけない──と、その時、シアの脳裏に妙案が浮かんだ。
触れたものを侵食するのであれば──無限に、囮を用意すればいいんじゃないのか、と。
刹那、空中に大量の小さな岩塊が、シアの意志によって突然生成された。魔法を理解している響哉からすれば、魔法ならばもう少し時間がかかりそうなものを、そんな一瞬で発動できてしまうことが妬ましいし。異能を理解しているファロンからすれば、これほどまでに多彩な対処を見せてくる小娘が、憎らしくて仕方ない。
金の触手がそれらに衝突し、一つ一つを黄金に変えながら侵食する。その過程で、触手の動きはほんの一瞬、しかし確実に止まる。
──その裏で、ルイと響哉は動いた。
(俺は……父さんのことを、まだ全部思い出せてない。珠桜さんの本当のことも、わからない)
(でも……一つだけ、確かなことは──)
(誰かに操られたくない。誰かの物語の、ただの駒になりたくない)
(だから──)
ルイと響哉が、金の触手のわずかな隙間を縫い、宙を蹴ってファロンへと迫る。風切り音が鋭く耳を撫でる。
互いに言葉は交わさない。長くはないが、幾多の生死を共にした戦いの中で培われた確かな連携が、目配せ一つで全てを伝える。ルイは左、響哉は右。役割は自然に分かれる。
二人はそれぞれ、ダガーの形状に持ち替えた武器をしっかりと握りしめ、刃先に微かな光を宿し──そして。
「「終わりだ!!」」
二人の声が、ほぼ同時に、しかし一つに重なるように響いた。
ルイのダガーがファロンの左頸動脈を、響哉のそれが右側を、互い違いに鋭く切り裂いた。それは一瞬の出来事で、二つの刃が交差するように光り、消えた。
──鮮血が噴き出し、弧を描いて空中に散る。ファロンの体が、一切の抵抗もなく崩れ落ちる。彼の赤く輝いていた瞳は、急速に色を失い、広がったまま虚空を見つめ、やがて光を完全に失っていった。
同時に、地面が侵食された金色の結晶から、元の土や枯れ草が広がる荒れ地へと戻っていく。そこでようやく、五人は地面に足を着くことができた。
ファロンの異能による理の書き換えが、彼の死と共に、雪解けのように消え去った。ただ、無数の金色の欠片が微かに光りながら散っていくだけだった。
戦いの緊張が、急に抜ける。
ルイは思わずその場に膝をついた。足が震え、息が荒い。続けて、何度かドサ、 ドサ、と衣擦れの音が響く。見ると、シアと律灯も同様に地面に座り込んでいた。律灯は傷ついた体を支えながら、シアは消耗でぐったりしている。
オーロラの光が、静かに五人の姿を照らし出す。辺りには、激闘の跡と、深い静寂だけが広がっている。
ルイの胸の中を、ようやく終わったという重い達成感がゆっくりと満ちていった。しかし、それと同時に──なぜかわからない、ほのかな喪失感も、じんわりと心の隙間を埋めはじめた。まるで、何か大切なものが、敵と共に消え去ってしまったような、そんな感覚。
なぜ、喪失を感じるのだろう。ファロンは最後、ルイの命を狙い、世界を歪めようとした敵だ。それなのに。
『「親友」』
かつて父親がファロンを呼んだ、あの皮肉に満ちた言葉が、頭をよぎる。
(──いや、考えないようにしよう)
その時。
倒れたはずのファロンの身体から、微かに金色の粒子が、まだ温もりのある傷口から煙のように、あるいは最後の息のように滲み出し始める。それは死の直前に仕掛けられた、時限の遺恨か、あるいは彼の存在そのものがまだ完全に消え去っていない証か。
そして、彼の血に濡れ、かすかに動く唇から、かすれた、しかし確かな、執念そのもののような声が漏れた。それはもはや人間の声というより、異能そのものが発する、世界への呪詛に近い。
『何も得られないのであれば──すべて、"無"に還してやる』




