第三十六話 金の理に終焉を - 1
ファロンの瞳が冷たく、無機質な光を放つ。慈愛も期待も、もはやそこにはない。あるのは、完璧な計画を乱す障害を排除するという、純粋で冷酷な目的だけだ。
「……ならば、仕方ない」
彼が掌を上に向ける。その優雅な動作と同時に、地面が黄金色に染まり始める。石も土も枯れ草も、すべてが冷たく硬質な金色の結晶へと変質しはじめた。
その変化はファロンを中心に同心円状に波紋のように広がり、ルイたちの足元へと容赦なく迫る。《Altération》──存在そのものの本質を書き換える力の、本格的な発動だ。世界そのものを、彼の理想通りに「修復」するのではなく、反抗する者全てを「変換」してしまう暴力的な行使。
「離れろ!」
響哉が鋭く叫ぶ。彼は即座にルイと珠桜に駆け寄り、無傷の左腕と魔法の力で二人を抱え上げ、地面を蹴って空中へ浮かんだ。次の瞬間、彼らがいた場所は金色の結晶に飲み込まれ、元の姿を失う。
今度は、ルイに手が届かない、ということは当然ない。二度、同じ轍は踏まない。
彼らの横で、シアも同様に自身の魔法で律灯の体を支え、宙へと引き上げていた。四人は、金色の侵食が及ばない上空へと逃れた。
「律灯、あのウゼェ金女神だけは絶対に作らせるなよ!! コイツの異能で、アレだけが唯一のバケモンだ!! あれが出たら、正面からは勝てねえ!!」
「分かってます!」
律灯が答える。紫水晶の瞳が、空中でキラリと鋭く光る。彼は重心を定め、ファロンへと掌を突き出す。
「──《調律》! 『此の空間にて、新たなる異能造物の顕現を認めず』!」
宣言と共に、星溶粒子が律灯の周囲に迸る。
先程戦ったイェルマの異空間とは異なり、この現実世界はあまりに広大だ。効果範囲を具体的に指定しなければ、一気に異能を成立させる星溶粒子のストックが尽き、世界の定義を書き換えることは叶わない。具体的な範囲を敵に悟らせないため、彼はあえて"此の空間"という曖昧な言葉を選んだ。紫水晶の瞳が極限まで輝き、視界に映るすべての空間に絶対的な「理」を刻み込もうとする。
「貴様の異能はなんだ?」
ファロンが律灯の言葉に鋭く反応し、女神の顕現をさらに強く促そうとする。
──ファロンの異能の出力は強い。律灯の額に浮かぶ血管が膨れ、冷たい鼻血が一滴、また一滴と地面へと滴り落ちる。彼の定義は、もしかすると完全な封鎖ではなく、むしろ"顕現の遅延"という形でしか効果を発揮していないかもしれない。
ファロンと律灯、どちらが世界を定義するか──
「ふむ、封じるか。だが、それだけだと思うな」
ファロンが指を軽く鳴らす。金色の結晶の中から、無数の鋭利な槍が、地面や空中から突如として生まれ、四方八方から律灯を襲う。
一斉攻撃だ。軌道も速度もばらばらで、予測不能。
「《調律》──『此処に飛来する固体は、互いに衝突せよ』」
律灯が静かに、しかし確かに宣言する。紫水晶の瞳がさらに強く輝き、彼の周囲の空間が微かに歪む。飛来する無数の黄金の槍が、突然お互いの軌道を引き寄せられ、空中でぶつかり合い、粉々に砋け散る。金属が軋み、砕ける不快な音に、ルイとシアは思わず耳を塞いだ。
しかし、その複雑な定義を維持する律灯の口の端から、新たな鮮血が溢れ出した。彼の体が、かすかに、いや明らかに震える。
異能を発動したことへ対する代償──響哉が暴槌を使用したときに右腕の機能が失われるような物理的な「代償」は、《調律》の異能にはない。
だが、相手より強く、世界を書き換える強欲さと、理不尽をそのまま押し通す胆力がなければ、この異能者同士の、世界の定義を奪い合う戦闘には勝てない。
星溶粒子と肉体は、ほぼ同化している。無理な行使で精神と異能が傷付けば──それを宿す肉体も、同等に傷ついてしまう。世界の書き換えに手こずり、負けるほど、肉体に異常をきたす。
「律灯さん、無理しないで……!」
シアが必死に叫びながら駆け寄ろうとする。彼女は、珠桜や律灯、響哉たちと比べ、圧倒的な戦闘能力では完全に劣っている。異能だと分かった、自分の力と、澄幽で培ったわずかな戦技だけが頼りだ。
傷つき、苦しむ仲間を目の前にして、ただ傍観していることなどできない。助けたいという願いが、震える手足を押し動かし、全身から迸っている。
──そのあまりに純粋で直向きな覚悟が、逆にファロンを警戒させるほどの異質な気配を放っていた。
(……この娘、いざ対峙してみると……違和感が凄まじい。一見、異能者のようにも感じるが、星溶粒子の気配がどこにもない。まるで、存在自体がこの世界の法則から少しだけずれているかのようだ)
「っ!」
杖剣をしっかりと構え、シアは突進する。震えは、もうない。瞳の奥には、澄んだ決意の光が灯っている。
『こんなにも、ファロン様を想い、祈り、焦がれているワタクシを差し置いて――どうして、オマエが、その御心に触れているの……?』
『叶わない恋のために、いったいどれだけのものを犠牲にしたのかしら!』
『自身の命まで投げ捨てて、なお、報われないこの果てに何があるというの!?』
ミレディーナとフィリアの、狂おしくも哀しい言葉が、シアの胸の奥で鮮明に蘇る。あの二人もまた、ファロンという存在に翻弄され破滅した。
(きっと、あの人たちも……ルイも……ファロンさんにいいように利用されてしまっただけ。誰も、幸せになんてなっていない)
──生きて、澄幽に帰るため。
そして、彼女たちの無念を、せめてもの形で晴らすためにも。
覚悟は、とっくにできている。
ファロンは小さな金色の宝石を取り出し、シアの突進を阻むように、瞬時に分厚い金属の壁を立ち上げた。それは《Altération》で変質させられた、絶対的な防御障壁だ。
だが、シアはそれを見ても動きを変えることはない。杖剣に自らの意志そのものを込めた烈火を纏わせ、迷いなく乱暴に振るった。技術などない、ただの全力の一撃。
「熱っ……!?」
ふと、近くで戦う律灯が小さく声をあげた。どうやら剣の端から迸った炎の粉が近くに飛び散ったようで、彼の着物の裾がかすかに焦げ、煙を立てていた。シアは思わず内心で謝罪の土下座をした。
一方、壁は一見無傷に終わったように見えた。斬撃の痕すらついていない。
だが、一呼吸遅れて──その斬撃が当たった部分から、じわり、じわりと、表面が溶けるように歪み、ひび割れが走り、そして壁は静かに崩れ去ってしまった。
「なっ……」
ファロンの作った異能の造物を、シアが無理矢理に破壊してしまった。
「えぇ!? シアちゃん、いつの間にそんな魔法を!?」
「ま、魔法じゃないです! ただ、めっちゃ頑張ってます!」
シア自身も驚きを隠せないが、それ以上にファロンの方に強い衝撃が走った。
(……変質させたこの壁を、破壊された? 星溶粒子を持たない小娘に……一体、どんな原理だ。彼女の異能は、どのようにして発動されている。彼女もまた、私と同様に"本物"を作り出せるのか?)
「……面白い」ファロンが微かに口元を緩める。それは興味の色だ。「世界の修復に、君も何か貢献できることがあるかもしれない。その"特異性"、詳しく研究させるんだ」
「させない!」
──ファロンが律灯の《調律》とシアの不可解な攻撃に対処している間、響哉とルイはただぼーっとしていたわけではない。二人は、言葉も交わさずに完璧な連携を組み、息を殺して機を伺っていた。
そして、ファロンの注意がほんの一瞬、シアへと向いたその隙を、ルイがついにものにした。
低く身をかがめ、一気に距離を詰める。靴底が砂利を噛む音さえ立てない静かな足運び。まるで、かつて澄幽にいた"忍者"のように。
「……!」
珠桜に鍛え上げてもらった、ダガーを使った近接戦闘術がここで光る。
ファロンが生み出すあの金色の女神は、人間の知覚できる領域を超えた速度で動く怪物で、相手なんてできたものではなかった。
一方、ファロン自身は生身の人間だ。異能者ではあるが、肉体には確かな限界がある。息をし、血を流し、痛みを感じる。
体格差と武器の軽さを生かし、低い姿勢から繰り出される攻撃は、短く鋭い毒蛇の牙のよう。一撃ごとに致命傷を与えるべく計算された軌道。
ただし、腐ってもファロンは元軍人。格闘の心得もあり、長い戦歴が体に染みついている。体が反射的に反応し、ルイの突きを最小限の動きでかわそうとする──が、相手が悪い。
ルイに技を仕込んだのは──どれだけ異能者が暴れたとしても必ず殺すことができる能力を持った者のみが選ばれる。イージス・コンコード最高執行官、黒華珠桜その人だ。その技は、異能の隙を掻い潜り、生身の肉体を確実に、効率的に殺すために磨き上げられた殺人術の極致。
なにも、幼い頃から殺人術を教えられることに、深い疑念は抱かなかった。これが正しいのだと、これしか知らなかったから、ただそう思い続けてきた。
しかし、真実を知った今、この殺人術が珠桜が自分を"道具"として育て上げるために教えたものである可能性は、重くのし掛かる疑念となってしまった。教えられた全てが、偽りの絆の上に築かれたものなのか?
──だが。
(ファロンに勝ち、生きて、自分自身の目で確かな真実を得るために──今は、俺の意思で、この技を使わせてもらう!)
ルイの瞳に、迷いが消える。代わりに、研ぎ澄まされた殺意と、自分自身の選択による確信が灯った。彼は地面を蹴り、再びファロンへと突撃する。その動きは、教えられたままの無駄のない軌道だが、そこに込められる意志は、もはや誰のものでもない、ルイ自身のものだった。




