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第三十五話 道は己が拓く - 2

 ルイの腕の中で、珠桜の体が、一度大きく震えた後、次第に重さを増していく。その重さは、物理的なもの以上に、ルイの心を押し潰すほどだった。頬に伝わる涙の温もりと、腹から滲み出る血の冷たさ。この対比が、現実を残酷に突きつける。


「……ルイ…………」


 珠桜の声は、かすれ、ほとんど息のように聞こえる。それでも、彼は無理やり目を開け、ルイの瞳を捉えようとする。


「信じて、くれなくても……いい……でも……逃げて……ファロンと……一緒に、行かないで……っ……

 ファロンは、世界の修復の前に……人間を皆殺しにする……修復した世界が……壊されないように……」


 その言葉が、ルイの中で何かを引き起こした。今までグチャグチャに絡み合っていた疑惑、怒り、悲しみ、混乱──珠桜の断片的な言葉は、それらを解きほぐすどころか、さらに複雑に、より深い迷宮へと変えていった。


(……なにが、なんだか……さっぱりわからない。誰が正しくて、誰が嘘を吐いているんだ……)


 自分は今、逃げようとしていたのではないか。真実という重い荷物と向き合うことを避け、ファロンが用意した道に飛びつこうとしていたのではないか。


 それは、考えることをやめ、誰かに導かれることで、自分自身の責任から逃げることに等しい。


「珠桜さん……」


 ルイの声は、震えていた。しかし、それは今までの混乱や恐怖による震えとは違う。崖っぷちで、一歩を踏み出そうとする前の、緊張と覚悟の震えだ。

 ファロンが、ルイの内面の微妙な変化を敏感に察知した。彼の優雅で慈愛に満ちた微笑みが一瞬で氷のように消え、異能を発動させた赤い瞳が、冷徹な計算光を鋭く放つ。


「ルイ。迷う時間はない。さあ、彼を離し、こちらへ来なさい。君の本当の居場所は、私の元だ。君だけが、私の理想を完結させられる」


 ファロンが手を差し伸べる。その手は、完璧に整い、一切の傷も汚れもない、まるで芸術品だ。全てを修復し、元通りにする力を持つ、神の手のように見える。

 ルイは、珠桜の重く、次第に冷たくなっていく体を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。彼の目には、涙がまだ宝石のように光っていたが、その奥には新たな、固い決意が結晶しつつあった。


「……ファロン」


 ルイが口を開く。声は低く、地を這うようだが、その一つ一つの音節に、揺るぎない意志の重みが込められていた。それは、迷いから生まれた確信の声だ。



「……俺は、全てを自分の手で掴みたい。真実も、失った記憶も……嘘も本当も、全部ひっくるめて。自分の目で見て、自分の頭で考えて、そして……自分の責任で決めたい」


 ルイは、ファロンの異能によって燃えるような赤に染まった瞳を、微動だにせず見据える。その視線には、もはや従順な子供の面影はない。

 一人の、独立した意思を持つ者の眼差しがあった。



「誰かについて行くだけの人生は、もうたくさんだ。頼る相手も、信じる相手も……

 俺の道は……俺が決める!!」


 その宣言と同時に、空気が軋んだ。物理法則そのものが歪むような、重く不吉な圧迫感が周囲を包む。

 金色の女神が再び顕現する。しかし、今までとは明らかに異なる、純粋で冷徹な殺意をまとっている。これまではルイ以外の者──シアや響哉を主な標的に動いていたが、今は違う。その宝石のように硬質で無機質な瞳が、ルイと、彼が必死に抱きかかえる珠桜を、等しく「排除対象」として冷たく認識している。無数の金の糸が、女神の体から噴出するように伸び、一つ一つが鋭利な針へと先端を尖らせ、ルイと珠桜の眼前に殺到し、スレスレの位置で止まる。それらは、もはや捕縛のためではなく、貫通と消滅のために存在しているものだ。



「──そろそろ潮時か」


 ファロンの声が、もはや一切の温情や慈愛を排している。それは、長年温めてきた計画が、最後の最後で想定外の要素によって台無しになりつつあることへの、冷ややかな怒りと断捨離の決断を告げる声だ。そのあまりにも劇的な変貌に、ルイは思わず息を呑んだ。男の──本来の冷酷無比な顔が、今、剥き出しになった。


「これ以上長引かせて、ミオウに再起の機会を与えるわけにはいかない。非常に惜しいが……君は、私が思っていた以上に脆く、愚かだった」


 ファロンの赤く輝く瞳が、深く暗く、星々が消えゆく宇宙の闇のように光る。そこには、もはや人間の感情は微塵もない。


「ルイ。君のことも、ここで殺してやる。不要な変数は、速やかに消去するのが、理にかなっている。とても残念だが……仕方ない」


 その言葉を合図に、無数の金の糸が、一気に──音もなく、光の速度で襲いかかる。




「──《調律》!!」


 その鋭く、そして確かな声が、殺意に満ちた空気を切り裂いた途端、金色の女神たちと、ルイと珠桜を襲おうとした無数の金の糸の全てが、一瞬で星溶粒子へと分解され、金色の霧のように空中に霧散した。圧倒的な存在感を誇った異能の造物が、あたかも初めから幻だったかのように消え去る。


「なに……?」


 ファロンが、初めてと言っていいほどの純粋な狼狽を表情に浮かべる。彼の赤い瞳が、予期せぬ方向──珠桜の従者たちが溶け、死んだはずの場所へと急いだ。

 その視線の先に──律灯、響哉、そしてシアが、確かに、傷つきながらも立ち上がっていた。シアの全身の火傷は、何もなかったかのように消えている。律灯は紫水晶の瞳を鋭く輝かせ、響哉は灰の瞳に冷たい怒りの炎を灯し、シアも痛みに歪みながらも確かな意志で拳を握りしめている。


 そして、律灯の手には、銀と漆黒が絡み合う美しい弓──珠桜の異能が生み出した、射た対象を「その時間から消し去る」という絶対的な能力を持った武器《天弓》が、確かに握られていた。


「貴様ら……死んだはずでは。あの熱で、塵と化したはずだ」


 ファロンの声には、完璧な計画にほころびが生じたことへの苛立ちと、わずかながらも確かな動揺が混じる。彼の理屈では説明できない現象が起きている。


「ルイと珠桜様をおいて、死ねるわけないでしょうが!! ……正直、ホント死んだと思ったけど!!」


 シアが、恐怖の余韻に震えながらも、ヤケくそな笑みを浮かべて叫んだ。彼女の体には火傷の痕一つないが、その表情には死の淵を覗いた者の深い陰影が刻まれている。


「死ぬ寸前の状態を、天弓でその時間ごと切り取り、"無かったこと"にしました。因果律の整合性を取るのに少々頭を使いましたが」


 律灯が静かに、しかしその言葉一つ一つに、時空を歪めた重い異能の残響を乗せて告げる。《天弓》で「死の瞬間」という時間そのものの連続性を射抜き、その事象を世界の記録から一時的に抹消したのだ。

 しかし、一度消えた存在を「今ここ」に再び定着させることは、それだけでは不可能だった。一時的に過去にしか存在しないことになった彼らを、この現在の時間軸まで強引に追いつかせ、縛り付けたのは──願いを力に変える異能を持つ少女、シアの、底知れぬ胆力と、文字通り「死にたくない」という生存願望の爆発だった。それは、個人の意思が物理法則に干渉する、より根源的な奇跡に近い。

 時空と因果律に対する二重の冒涜。それは、彼ら三人の存在そのものを不安定にする、危険極まりない行為だ。


 それでも、やる。やらなければいけない。



「死の定義書き換えにまで及ばせるとは……流石はミオウが選んだ従者どもだ。狂っている」


 ファロンは表面上の冷静さを取り戻しつつあるが、その目には新たな危険因子を認識した鋭い警戒色が強く浮かぶ。もはや単なる従者ではない、珠桜や自分の協力者として選んできた者たちに匹敵する「理の歪曲者」として。


「だが、無理をしたな。その負荷、お前たちの体がいつまでも持つと思うか? 書き換えた現実は、必ず元に戻ろうとする。その反動は、お前たち自身を粉々にするだろう」


 律灯の額から鮮血が流れ、響哉の無傷だったはずの左腕に不自然な空間のひび割れのような亀裂が走り、シアの火傷が消えた皮膚の下で内出血を起こしている。彼らは、文字通り死の淵から戻ってきた代償を、肉体と存在そのものに刻んでいた。この状態がいつまで続くか、あるいは次の瞬間に崩壊するか、誰にもわからない。


「……必ず、生きて澄幽に戻る」


 ルイが、腕の中でかすかに息づく珠桜を、温もりを確かめるようにしっかりと抱きしめながら、低く呟く。その声には、迷いが消え、確かな意志だけが残っていた。


「真実を、俺自身の目で突き止めるために。そのためには……生きなきゃならない」

「愚かな選択だ、ルイ。君は、同じ過ちを繰り返そうとしている。私の手を離れれば、君は再び迷い、傷つき、誰も守れなくなる」


 しかし、ルイの口元に、かすかな──ほとんど笑みともつかない、しかし確かな覚悟に満ちた表情が浮かんだ。


「過ちかどうかは……これから、俺が決める。もう、誰かに決めさせたりしない」

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