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第三十五話 道は己が拓く - 1

 荒い息が、頭上で繰り返されている。それが自分のものか、珠桜のものか、もう判別できない。


(殺せていない……)


 確かに、地面に暗い赤い血が、滴り落ちて小さな水溜りを作っている。だがそれだけだ。直前に珠桜が腕をわずかに引かれ、狙いを外された。銃弾は珠桜の左脇腹を抉り、後方の地面へと抜けている。致命傷ではない、しかし確かに深い傷だ。

 珠桜が大きくよろめき、ルイの方へと体重を預けながら倒れ込む。ルイもその重みに耐えきれず、後ろへと押し倒された。二人は重なり合い、冷たい地面に倒れ伏す。


「……すまない……今までっ、隠していて……本当に、すまなかった……」


 珠桜の呟きが、耳元でかすかに震える。ルイの手に、熱く粘り気のある液体がしたたり落ちてくる。考えなくても、それが誰の血であるかは分かる。その温もりが、まるで珠桜の命そのものが手のひらから流れ出ていくようで、胸が締め付けられる。

 ふと、視界に長い影が差した。直後、


「──ッう」


 ドッ、と鈍く重い音と、わずかな衝撃が、重なった珠桜の体を通じて伝わってきた。ファロンが静かに、しかし確実に姿を現し、珠桜の負傷した脇腹を、革靴の底で冷たく踏みつけている。珠桜の体が微かに痙攣する。


「ルイ。早くとどめを刺せ。こんな男に情をかけてはいけない。反撃される前に終わらせろ」


 ファロンの声は、慈愛に満ちた指導者のようでありながら、その内容は冷酷そのものだ。

 踏みつけられた珠桜が、苦しげに、しかし意志の力を振り絞って言う。


「コイツの言葉を……聞くな。君は……また騙されることになる……」


 珠桜の声は、痛みで途切れがちだが、その中に確かな意志が光る。血が喉に詰まるような音が混じっている。


「ルイ……お願いだよ……話を聞いてくれ。たった一度でいい……私の話を」

「……珠桜さ、ん……」


 ルイの声は、絞り出されるようだった。眼前で血を流し、なおも自分に訴えかける珠桜と、背後で冷たく見下ろすファロン。二人の言葉が、彼の中で激しく衝突する。

 ファロンが珠桜にとどめを刺すべく異能を使う。持っていたコインが、鋭利なナイフへと形を変える。ファロンはそれを優雅に、しかし確かに握りしめた。その刃先が、闇の中で不気味に輝く。


「死ね、ミオウ。これで終わりだ」


 ナイフが振り下ろされる──珠桜の心臓を貫かんとするその軌道。


 その直前。ルイは、もう一度、銃の引き金に力を込めた。


 ──ドン!


 重い発砲音が轟く。その先で、鮮血が花のように散った。



「──まだ話は終わってない!!」



 ルイの叫びが、硝煙と血の匂いの混じった空気を切り裂く。その銃口は──もはや珠桜を向いてはいなかった。冷たく震えるその先端は、珠桜を踏みつけるファロンを、確かに狙っている。ルイの指はまだ引き金にかかり、瞳には混乱と怒り、そして何かを確かめようとする必死の光が混ざり合っている。


「珠桜さん、なんで隠してたんだよ!! なんで、俺に言ってくれなかったんだ!!」


 ルイの声は、泣きそうなほどに歪んでいる。信じたかったものと、突きつけられた現実の間で、彼の心が引き裂かれそうだった。


「言えない……言えないよ……君に、そんなつらい過去を背負わせたくなかった……みんな知ってるんだろ……? 律灯だった、響哉だって!!」


 珠桜は苦しげに喘ぎながら答える。踏みつけられた傷からさらに鮮血がにじみ、彼の顔は蝋のように蒼白だ。呼吸は浅く速く、額に浮かぶ冷や汗が夕闇に微かに光る。


「やっぱり、ファロンが言うように、俺をいいように利用したかっただけなのか!?」

「っ、それは違う!! 絶対に違う……!」


 珠桜が顔を上げ、痛みで曇りかけた瞳を必死に見開いてルイをまっすぐ見つめる。その漆黒の瞳の奥には、苦しみを凌駕する、揺るぎない真実の光が灯っている。


「君の父は──人を、殺してしまったんだ。守るために、追い詰められて……そして、その彼を、私は処刑人として、殺した。これが真実だ」

「え……?」


 ルイの目が大きく見開かれる。脳裏を、ファロンが示した鮮明な映像がよぎる──刀を振るう珠桜、倒れゆくナサニエル。だが、その文脈は? 

 ファロンが告げたことと、珠桜が今語ったことは、微妙に、しかし決定的に異なっていた。一方は単純な謀殺、もう一方は「処刑」という名の、複雑な事情を伴う死。


「でも、間違わないでくれ、君の父にも事情があった……! 彼だって、本当は被害者だ! 追い詰められ、その選択をするしかなかった!


ファロン──全ての元凶は、アイツだ!! あの男が、君の父を、君の家族を壊した!!」



 その時、ファロンが、珠桜の傷口を踏みつける足に、さらに静かに、しかし確実に力を込める。冷ややかで計算高い表情で、全体重をかけるように、じわりと、何度も押し込む。革靴の底が、裂けた肉と布地に深く食い込む鈍い音がする。珠桜の背筋が瞬間的に硬直する。


「ぐ、ああぁっ……!」


 珠桜が思わずうめき声を上げ、歯を食いしばる。額に浮かんだ冷や汗が一筋、頬を伝い落ちる。


「そんなわけがないだろう」


 ファロンの声は、これまでの慈愛を装った調子から、冷たい怒りへと変わりつつある。計画が思い通りに進まないことへの苛立ちがにじむ。


「ルイ、君はナサニエルと過ごした記憶を、片鱗でも取り戻したはずだ! あの優しく、家族を愛した男が、人を殺すと思うか!? この男の言うことはあまりに滅茶苦茶で、信用に欠ける!! 君だってわかるだろう!」

「託されたんだ、あの人に……! 最期……君が、大きくなって、幸せを見つけられるようにって……! そのために、私は……!」


 珠桜の声が詰まる。涙が、血と汗と土で汚れた頬を無言で伝う。それは、演技でもなく、弁明でもない。ただ、押し殺してきた真実が、耐えきれずに溢れ出しているのだ。


「作り話を、よくもそんなスラスラと!!」


 ファロンの嘲笑が、刃のように鋭く空気を切る。


「作り話なんかじゃない……!ごめん……本当に、ごめん……!

 なにを、どう伝えていいのかも……!どうやって、君と、みんなを、守ればいいのかも……!私は……何も分からなかった……!ただ、守りたいだけだった……!」


 彼の嗚咽が、重苦しい空気に溶け、吸い込まれていく。長年隠し続け、背負い続けてきた罪と責任と、それ以上に大きかった愛情が、今、この場で、無様に、しかしこれ以上ないほど純粋に溢れ出した。

 ファロンが金のナイフを静かに振り上げた。その動きはゆっくりで、あたかもルイに決断の時間を与えているかのようだ。ルイは、手足が鉛のように重く、何も動けない。思考が停止し、ただ目を見開いているだけだった。

 刃が珠桜の背中に迫る──その一瞬、珠桜がぎりぎりで刀を背中に回し、かすかに受け流す。だが、踏みつけられ、出血多量で力は入らない。刃は軌道をわずかにずらしただけだ。


「ッ、ああぁぁあああっ──!」


 背中の皮肉が、布と共に鋭く裂ける音。珠桜の体が、ルイの腕の中で大きく痙攣する。吐息が、熱く、そして次第に冷たくなっていく。


 死んでしまう。

 今、自分の腕の中で、一つの命の灯火が、確実に、ゆっくりと潰えようとしている。その重みと冷たさが、ルイの全身を貫く。


 ──あと、何回、この人の言葉が聞ける?

 ──そもそも、このまま珠桜さんを殺させて、ファロンの手を取るのが、本当に正しい選択なんだっけ?


 ──これで、本当に、後悔しないのか?

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