第三十四話 銃口は慈父を向く - 2
──話声が、かすかに風に乗って聞こえてくる。
「急いで探そう。ファロンの手から、早く取り戻さないと」
──何が目的だ。どうして……俺が、こんなに狙われなきゃいけないんだ。俺が何をしたっていうんだ。
「ファロンのことは必ず、ここで仕留める。二人も、戦うことを覚悟しておいてね」
その言葉を聞いた瞬間、"彼"の足が勝手に動いた。
地面を蹴った。不思議と、これまでの戦闘の疲れや、ファロンとの対峙による精神的な消耗は一切感じなかった。むしろ、体の芯から何かが湧き上がってきているようで、軽く、動きやすい。
視界の中で、漆黒の髪が揺れるのが見えた。振り返ろうとしている。流石に、気配を完全に消して近付くことは不可能だろう。気づかれてしまう。
でも。それでもいい。
「珠桜さん……!」
声が、彼──ルイの口から、泣きそうなほど必死に漏れた。
「……!」
ルイの姿を捉えた珠桜の目が、一瞬で大きく見開かれる。驚きと、そして何かそれ以上の──深い安堵と鋭い心配、さらには計り知れない責任感が、一瞬で彼の漆黒の瞳に渦巻いた。
ルイは躊躇わず、その胸に飛び込んだ。不安で押し潰されそうだった子供が、唯一の拠り所を見つけた時のように。足がもつれそうになるのを感じながらも、その確かな温もりに必死にすがりつく。
一瞬、傍らにいた響哉が、ルイらしくないその衝動的な行動に眉をひそめ、全身に警戒の力をみなぎらせた。それが偽物ではないか、ファロンの巧妙な罠ではないかと疑った。だが、次の瞬間、彼の灰の瞳の輝きがわずかに変化する。違った。あの震える息遣い、ぎゅっと握る拳の力加減、全てが紛れもない本物のルイだった。
ルイは珠桜の首元に強く顔を埋め、目を閉じた。震える両腕を、必死に珠桜の背中に回し、その上衣の布地を指先まで力一杯握りしめた。まるで、今にも流れ去ってしまいそうな浮き木にしがみつくように。
──ほんのりとした戦いの硝煙の匂い、汗の湿り気、そして何よりも確かな体温。
珠桜は、その小さな体から伝わる震えと必死さに、胸の奥が熱く締め付けられるのを感じた。
「ルイ、君……?」
珠桜の声は、驚き以上の、深く染み渡るような慈愛に満ちていた。探し求めたものがようやく手元に戻った安堵と、その身に降りかかった苦難を思う切なさが、その一言に込められて響く。
「珠桜さん……っ」
ルイの切実な呼びかけに、珠桜の体の力が一瞬で抜けた。彼は思わず、しっかりとルイの小さな背中を包み込むように抱きしめた。
「……ごめん、君のことを危険な目に遭わせて!」
ルイの切実な、喉の奥から絞り出されるような呼びかけに、珠桜の体の力が一瞬で抜けた。彼は思わず、反射的に、しかし確かな力でルイの小さな背中を包み込むように抱きしめた。その抱擁は、守るべきものを再び手にした喜びと、一度ならず危険に晒してしまったことへの痛切な無念が、複雑に絡み合っている。
「もう、もう二度と離したりしない。私も、響哉も、律灯もいる。琴葉に救援を頼も──」
言葉は、そこで鋭く切断された。
胸に、冷たく硬い金属の感触が突きつけられていた。
珠桜の呼吸が一瞬止まり、目がわずかに見開かれる。その視線は、まず自分の胸元にある銃口へと下り、そして──それを握る、ルイの手へとゆっくりと上っていった。
それと同時に、周囲に灼熱の波が吹き荒れた。金色の女神が、再び──否、今度はより鮮明に、より冷酷な殺意をまとって現れた。その光が、響哉、倒れたシア、そして律灯を一瞬で飲み込む。彼らの体が、金色の炎に触れた瞬間、文字通り"溶けて"いく。肉体が蝋のように形を失い、苦悶の絶叫が一瞬で硬化し、粉々に砕け散る。光と熱だけが残り、そこにあった命の痕跡は完全に消し去られた。
そのあまりにも残酷な光景が、珠桜の視界に、魂に、深く焼き付けられる。
「…………ル、イ……?」
珠桜の声は、かすれ、わずかに震えていた。それは、胸元に突きつけられた銃口への恐怖ではなく、眼前の少年の瞳に宿る、見知らぬ冷たさと虚ろさへの深い困惑、そして何よりも切ない悲しみだった。
ルイの目は、どこか遠くの、珠桜の届かない場所を見つめ、彼の瞳の中には珠桜の姿が反射していない。まるで、ガラス玉のように硬く、冷たく光っている。
「イェルマのことも殺してきたか、ミオウ。あの狂人は最期に何と言っていた?」
背後から、滑らかで冷たい声が聞こえてきた。珠桜がゆっくりと、銃口を無視するかのように振り返ると、そこには金髪が闇に微かに輝くファロンの姿があった。彼は少し離れたところに立ち、慈愛に満ちたような、しかし底に冷たい確信を秘めた微笑みを浮かべている。
「ファロン……貴様……!!」
珠桜の声には、怒りの火花が散った。しかしその途端、グッと胸元の銃がさらに強く、骨に届くような圧力で押し付けられる。
珠桜は思わずルイの方へ視線を戻し、その銃を握る手を、自分の両手で包み込むように掴んだ。その手は、珠桜自身気付いていないが、あまりにも冷たく、震えていた。
「ルイ、銃を下ろしてくれ。頼むから、よく聞いて」
珠桜の声は、必死に平静を保とうとしながらも、切実な願いと──そして、今にも崩れそうな焦りがにじんでいた。彼は常に冷静で、計算高い人物だったが、今この瞬間だけは、感情が理性の堤防を押し流そうとしていた。
「だって……珠桜さんは……」
ルイの声は、詰まり、曖昧だった。深い混乱と疑念、そして信じたかったものへの未練が、そのかすれた声の中に渦巻いていることがわかる。
珍しく、珠桜は感情を制御しきれない。思わず、ルイの手を包む自分の手に力が入る。
守るべきものが──響哉も律灯もシアも、あの金色の光に消えた。それでも平静を保てるわけがあるだろうか?
彼の中の"最高執行官"は、今、深く傷ついた"保護者"の前に退いている。
「ファロンに何か言われたんだよね? 君は騙されている。あの男の言葉を、そのまま信じてはいけない」
「騙してたのは珠桜さんのほうだろ!! 父さんのこと……殺したくせに!!」
「……!」
──図星を突かれたかのように、珠桜は目を見開いた。その一瞬の動揺、瞳の奥を掠めた鋭い痛みと重い罪悪感の色が、ルイにはまざまざと見て取れた。
最も残酷な形で、真実が突きつけられた瞬間だった。
その反応で、ルイは確信した。
ファロンが言っていたことは、全部本当なのだと。優しく育ててくれた珠桜のその微笑みの裏側に、血に染まった過去と、隠し通した真実が確かにあったのだと。
育ての親は、実の親を殺した仇だった。
ドン──
重く鈍い発砲音が空気を切り裂き、辺りに響き渡った。




