第三十四話 銃口は慈父を向く - 1
「──珠桜様」
その逼迫した、しかししっかりと芯の通った声が、珠桜のぼんやりとした意識を鮮明に呼び戻した。
視界に映るのは、紫檀色の髪……律灯か? いや──
灰に濁った、鋭い瞳。
「……響哉か」
珠桜はゆっくりと、慎重に体を起こした。左肩に、捻じ曲げられた空間に触れた時の鈍い痛みが走る。
「無事、合流できたみたいだね。良かった」
しかし、響哉に気取られないよう、表情を一片の皺も動かさず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
だが──その程度の平静さで誤魔化せるほど、彼との付き合いは浅くない。
響哉の灰の瞳は、珠桜のわずかな動作の硬さ、呼吸の浅さ、そして微笑みの裏にある微かな緊張をも、見逃さなかった。
「……隠すなよ」
響哉が、躊躇いなく一歩近づき、珠桜の左肩に確かめるように指を触れた。その圧力に、ズレた関節が軋む。鈍い、しかし骨の奥に響くような痛みが走り、珠桜は思わず一瞬、息を詰めた。唇の端が微かに震えるのを、彼は必死に抑える。
「ズレてんな。治すから何か噛んどけ」
響哉は、珠桜の袖をまくり上げ、左肩の状態を素早く確認する。その指先は、戦場で幾度も負傷を処理してきた者らしく、乱暴ではなく、確実だった。珠桜は目を閉じ、痛みに耐えるために右腕の袖を噛んだ。
珠桜の様子を確認した響哉。珠桜の肩に両手をしっかりと当てる。左掌で肩を固定し、右手で上腕をしっかりと握る。筋肉の緊張を感じ取り、タイミングを計る。
「三つ数える。三……二……」
「一」の前に、鋭い、しかし一瞬の動作が入った。グイ、と押し上げるような、捻るような──正確で経験に裏打ちされた整復の手際だ。骨が正しい位置に収まる鈍い音と共に、鋭い痛みが走り、すぐに解放感に変わる。
「……終わりだ。動かしてみろ。無理はするな」
珠桜がゆっくりと左肩を回す。まだ重だるさは残るが、先ほどのような鋭い違和感と自由の利かなさは消えていた。
「……ありがとう、響哉」
「礼ならいい。次からは、隠すな。隠すくらいなら、怪我もすんな。珠桜様が動けなくなったら、澄幽の奥で生きる人々は本当に最後の希望を失う。無理は律灯にやらせろ。あいつは、それが役目だ」
響哉の声には、苛立ちと心配が入り混じっていた。
彼は珠桜の無理を、何よりも嫌う。戦場では自らが盾となり、あらゆる危険を引き受けることを厭わないくせに、主人である珠桜には常に万全であることを、無傷であることを求める。その矛盾した忠誠心が、今、彼の灰の瞳にほんの少しだけ悔しそうな、もどかしい影を落としていた。珠桜の身を案じながらも、自分がその場にいられず、守りきれなかった無力感が、彼をわずかにうつむかせ、肩を落とさせている。
「それで、その律灯はどうした。俺が説教──あ゛っ!?」
突然、響哉が顔を歪め、思わず奇声を上げた。珠桜は驚いて目を見開く。
見れば、傷つき、無気力に垂れた彼の右腕を、律灯が遠慮なしに、しかし確かな手つきでむんずと掴んでいた。律灯の紫水晶の瞳には、珠桜へのそれとはまた違った、厳しい観察眼が光っている。
「響哉こそ、大怪我してるじゃないですか。この損傷は……暴槌の代償ですか?」
「俺はいいんだよ!!再生能力だってあるんだし!この代償だって、もうあと三分ありゃ治る!」
「よくないです!!」
律灯の声は、静かながらも芯から強く響く。彼は響哉の腕を握ったまま、その傷の深さ──皮膚の下で不自然に折れた骨、異能の代償による神経の死滅、根本的な機能停止の度合いを、指先の感触と鋭い観察眼で見定めている。
──兄弟として、心配になるのは当たり前だ。
珠桜を守るために、己の身を盾にし、時に血肉すら犠牲にする人々がいる。だからこそ、珠桜は成し遂げるまで、この立場から逃げることも、倒れることも許されない。彼らが捧げた犠牲の意味を、無に帰してはならない。
彼らの存在は、かけがえのない盾であり──そして、逃れられない責務の呪縛でもあった。
その時、珠桜ははっと我に返り、緊迫した二人から視線を外して辺りを見回した。
──そして、少し離れた地面に、シアが無造作に寝転がっていることに気付いた。
その体には、全身にわたって酷い火傷の痕が広がっている。皮膚は赤黒く爛れ、所々に水膨れができ、薄くてもうろうとする意識の中でも、痛みに微かに顔を歪めている。金色の女神の灼熱が、彼女の身体を文字通り焼き焦がした痕跡だ。呼吸は浅く、時に痙攣するような小さな震えが背中を走る。
その姿を見た瞬間、珠桜の口の中の水分が急速に消え、喉が砂のように乾いていくのを感じた。守るべきものを、また一人、深く傷つけさせてしまったという無念が、胃の底に重く沈む。
「……シアは……まだ、生きているのか」
珠桜の声は、わずかに掠れ、かすかに震えていた。それは、冷静を装う主人の声ではなく、一人の保護者としての声だった。
「一応な。やれるだけの応急処置は施したが……」
応えたのは響哉だった。彼は律灯に腕を掴まれたまま、シアの方に視線を向け、悔しさと無力感を滲ませて顎を引いた。
「……魔法じゃ治療はできねえ。あの時、ファロンが操る眷属を追い払い、シアを火の海から引き摺り出すのが精一杯だった。焼けた皮膚の再生までは……」
彼の言葉が途切れる。その先にあるのは、自分にできなかったことへの苛立ちだ。
珠桜はゆっくりと視線を移し、もう一人の不在を確認する。
「……ルイ君は?」
一瞬、重い沈黙が流れる。響哉は唇を堅く結び、律灯も俯き加減になる。答えるべき言葉の重さに、二人ともわずかに躊躇っていた。やがて、響哉が顔を上げ、短く、しかし鉄のように重い音で切り出した。
「……ファロンに連れていかれた」
響哉が下手をうつようなことはない。珠桜はそれをよく知っている。本当に、厳しい戦いがあり、彼は最善の手を尽くしたのだろう。それでも奪われたという事実が、逆に敵の恐ろしさを際立たせる。あの少年を守れなかった無念が、響哉の硬い表情に滲み出ている。
ファロンも、それだけ狡猾で、強大なのだと理解している。だが──理解することと、受け入れることは別だ。
「居場所は」
珠桜の問いかけは、単純で直接的だった。余計な言葉はいらない。状況の分析でも、敵の評価でもない。
ただ、次に取るべき行動だけが問題なのだ。助けに行く。それ以外の選択肢は、最初から存在しない。
「辿れない」響哉が苦渋に満ちた顔で首を振る。灰の瞳に、焦りと悔しさがくっきりと浮かぶ。「どこか隔絶された場所にでも離れたか……あるいは、協力者の異能で完全に隠蔽されている」
珠桜は静かに、しかし確固たる意志をもって立ち上がった。左肩の鈍痛を無視し、背筋をまっすぐに伸ばす。空に輝くオーロラの光が、彼の決意を固めるように静かに背中を照らす。
「……このまま、探しにいく」
彼の声は、低く、しかし揺るぎない。
「絶対に、ルイ君のことを取り戻すよ。彼がどこにいようと、ファロンがどんな手段を使おうと──必ず連れ戻す」
その言葉は、単なる意思表明ではなく、揺るぎない約束だった。失ったものを、もう二度と失わないための。
──何か、話している声がする。




