第五話 遠ざかる光
ルイは、ひたすらに俯いて座り込んでいた。その肩は微かに震え、まるで崩れ落ちそうなほど脆く見える。
掠れた声が宙を漂い、空気に溶け込んでいく。その声には、普段の力強さや冷静さは微塵も感じられなかった。
その姿を目にした瞬間、シアの胸がひどく締めつけられる。喉が詰まり、背筋を冷たい汗がつたい、心臓がひとつひとつ重く鳴る。
こんなにも怯えたルイを見るのは、初めてだった。
ルイだって普通の人間だ。生きていれば、恐怖を感じることも、痛みを抱えることもあるだろう。それでも、シアの知っているルイは、どんな辛い時でもその痛みを隠し、強がり、何事もなかったように笑ってみせていた。――けれど今、彼は違った。
「ルイ……?」
そっと手を伸ばす。しかし、指先が肩に触れた、その瞬間。
「ひ……っ!」
ルイの体が大きく跳ね上がり、悲鳴が洞窟の冷たい岩壁に吸い込まれていった。荒い息遣い。吸っても吸っても、足りないように、浅く、速く。
自分の声など、一切届いていないようで。ルイの瞳は、どこか遠い闇を彷徨うように揺れていた。何かに囚われた彼を引き戻す方法もわからず、シアはそっと、静かに手を下ろすことしかできなかった。
(ルイがこんなふうになるなんて……いったい、何があったの……?)
『シアだけでも、早く逃げて』
その言葉が、シアの胸の奥に棘のように引っかかる。鈍い痛みを伴って、心の中でくすぶり続ける。
「逃げて」――ということは、何かに追われている? 誰かに追われ、この洞窟に逃げ込んだのか。それとも、あまりに強大な星骸を発見したとか? けれど、それにしては外傷がない。不自然なほどに、ルイの身体は傷一つなく――まるで、ただ"恐怖だけ"が彼を蝕んでいるかのよう。
そして、「シアだけでも」というのはつまり――ルイ自身は逃げられない、ということ?
ぞわりと、背筋を悪寒が駆ける。得体の知れない不安が波のように押し寄せ、シアの足を絡め取ろうとする。それでも、今は、立ち止まるわけにはいかない。
いつもルイが支えてくれた。ならば今度は、自分の番だ。
シアは静かに息を吸い、スカートの上でぎゅっと拳を握る。ルイの言うことを素直に聞き入れて、"逃げる"という選択肢は、最初から頭の中になかった。
彼を放っていくわけにはいかない。シアの胸の中で、無言の誓いが湧き上がる。
洞窟内に、しんとした沈黙が広がる。ただ、奥から漏れる水滴の音だけが、無情に響き渡る。
その中、シアはそっとルイを見つめた。
怖がらせないように。けれど、決して揺るがぬ意思を込めて。
そして、静かに、優しく言葉を紡ぐ――。
「……やだよ。ルイを置いていくなんて」
静寂を切り裂くように響く、まっすぐな声。
それは、沈みかけた心に光を落とすようで――ルイは思わず息を呑んだ。
「危ないってどういうこと? 何があったの?」
シアの瞳が、じっとルイを映す。まるで、深い闇の中に沈みきったルイの心を、無理にでも光の下へ引き戻そうとするような、そんな錯覚を覚える眼差しだった。
その視線に晒されることが、今のルイには耐えがたかった。
彼の足元に広がる影が、まるで生き物のように、さらに濃く、重くなっていくような気がした。心臓がぎゅっと絞られ、胸の奥に絡みついた恐怖が、より一層強くなる。
――シアは、これ以上知らなくていい。彼女を巻き込んではいけない。けれど、彼女の声は揺るがなかった。
「お願い。何があったのか、ちゃんと話して」
張り詰めた空気の中で、唯一、確かなものとして響き渡る。
シアの瞳が、ルイを捉え、揺れることなく彼を見つめ続ける。その目は、言葉よりも深く、強く、心に届く。
「私、何も知らないままルイを置いてくなんて、そんなの……できないよ」
洞窟の奥で、水滴がひとつ、落ちる音がした。
シアは、込み上げてくるものを必死に押し殺していた。それが何なのかは、自分でもよくわからない。
ルイを追い詰める"何か"へ対する恐怖か。それとも、彼が自分を頼ろうとしてくれないことへの悔しさか。あるいは――そのすべてが混ざり合った、名前のつけようのない感情か。
ただひとつ確かなのは、胸がひどく痛いということ。
けれど、それ以上に――きっと、ルイの方が苦しい。
だから、耐えなければならない。唇を噛みしめ、シアは揺るぎない瞳でルイを見つめ続けた。
ルイもまた、必死だった。
顔を上げてしまえば、シアの優しさに縋ってしまう。それが――怖かった。
彼女の優しさが、今のルイには胸を締めつけるほど苦しい。いつもであれば心地よくて、求めていたものなはずなのに。今は、今だけは、触れたくない。触れてはいけない。
触れてしまえば――巻き込んでしまう。
「シア、頼むから……逃げてくれ……"アイツ"がいつここに来るかわからないんだ」
吐き出すような、掠れた声。恐怖が染みついた言葉が、冷えた洞窟の空気に滲む。その響きが、シアの胸をざわつかせた。まるで引き裂かれるかのように、痛む。
喉が締めつけられる。それでも――言わなければならない。
本当はわかっている。こんな荒野で、一人で生きていけるはずがない。澄幽に戻れるなら、戻りたい。戻れるものなら、今すぐにでも。
俺は……死にたいわけじゃない。むしろ、その逆。
俺は、ずっと生きていたい。でも――でも。
『気をつけなさい……あなたに、これから……試練が訪れます……』
脳裏に焼き付いて離れない、ミコの予言。
『世界は……白光に飲まれ……焼かれ……消えてゆきます……』
珠桜へ、そして世界へ告げた予言。
『必ず迎えに行く』
"狭間"での、あの男の言葉。
あの声が、耳に鮮明に響く。自分を、慈しむように紡がれた声が、胸の奥にあまりにも深く刻まれていた。
――確信に近い直感がある。
あの男の存在が、自分に訪れると言われた"試練"と関係している。
いや、それどころか――世界が滅びることそのものが、俺に与えられた試練である可能性も否定できない。
あの男が操っていた金色の女神。"狭間"ではすべてが歪み、光すら存在しているのかもわからない闇の中だったため気づかなかったが、もしこの現実世界で光を当てれば――きっと、それは白く輝くだろう。
"白光に飲まれ、焼かれ、消えてゆく"。俺は、それを体感した。触れられた瞬間、皮膚が焦げ、爛れ、変質していく感覚。痛みすら追いつかない速さで、存在が塗り替えられていく恐怖。
……あの男は、俺を狙っている。ならば――俺が澄幽に戻れば、どうなる? 珠桜さんも、律灯も、他の保護対象も。関係のない人たちを、巻き込むことになる。それだけは、絶対に嫌だ。
戻りたい。でも、戻れない。
今、この瞬間にも、あの男はここへ来るかもしれない。だから、早くシアを帰さなければ。彼女が巻き込まれる前に。
だが、事情を話してしまえば、シアはなおさら俺のそばを離れない。むしろ、より深く関わろうとするだろう。
それどころか、もしシアがこのことを知ったら――アイツは彼女にも手を伸ばすかもしれない。
何も言えない。一人で抱えるしかない。
どうして、この世界は、俺一人では抱えきれないほどのものを、背負わせるんだ。
誰も巻き込まないために、俺は澄幽を出たのに。
なんで。どうして、自分から巻き込まれにきて――
「アイツって……?」
シアの声が、静かに落ちる。けれど、ルイはそれに応える余裕すらなかった。
「いいから、はやく…….」
なんで。
どうして、伝わらないんだ。
どうして、わかってくれないんだ。
「シア、早く――!」
「ルイ!!」
――バチンッ!!
鋭い音が、鳴った。
頬に走る衝撃。ジリジリと焼けるような痛みが、ルイの恐怖に支配された思考を冷やしていく。その感覚が脳裏に染み渡り、意識を一瞬だけ目覚めさせた。
思わず顔を上げたルイの視界に、シアが映る。
唇を噛みしめ、目尻に滲んだ水滴。右手はわずかに赤くなっていて、震えている。
それを見て、ルイはやっと理解した。
シアに――叩かれたのだ、と。
「シ、ア……?」
「落ち着いて、ルイ……何があったの?」
シアのまっすぐな瞳が、ルイの心を射抜く。
――でも。これでもなお、ルイはシアの優しさを受け止められない。
「……だから、俺に構うなって」
「そんなこと、できるわけないでしょ!!」
――心臓が跳ねた。
悲痛な叫びが、脳を揺らした。
初めてだ。
彼女が、こんなふうに声を荒げるなんて。
――いや、そうじゃない。
シアが、眉を顰め、苦しそうに顔を歪めている。
(…………違う)
その顔を。
そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。
「珠桜さんと律灯さんに頼まれて、ルイを探しに来たの! 二人ともすごく心配してた!! みんな、ルイのことを思ってるんだよ! 仲間なんだから……!!」
「っ……!」
その言葉が、心の奥を深く抉った。
"仲間だから"。
それが、どれだけ残酷な言葉か、シアは知らない。
ルイは唇を噛みしめた。痛みで少しは冷静になれるかと思ったが、逆効果だった。
――こうなるから、誰かと深く関わることを避けてきたんだ。
仲間を作ったから、離れないといけないのに、離れたくなくて。
辛くて、悲しくて、苦しくて。
相手も、自分を追いかけてきてしまう。
温かくて、嬉しいことなはずなのに、でも、巻き込んでしまったら。そのせいで傷つけてしまったら。そう思うとどうしても、自分には耐えがたい苦痛にしか感じられない。
怖い。
俺には、周りの優しさを受け止められる程度の強ささえ、ない。
「……シア」
声は、水面が揺れるかすかな音にさえかき消されそうなほどに、か細く、小さかった。
絞り出したその一言は、今までで一番弱く、情けなく、心を引き裂くようだった。
それでも、言わなければいけない。
これが、彼女を巻き込まずに、突き放す、唯一の方法だと思ってしまったから。
「頼むから……もう、俺に関わらないでくれ」
その言葉が空気を凍らせ、二人の間に静寂が落ちた。
またしても、世界が一瞬にして色を失ったかのように思えた。
シアの瞳が、大きく揺れた。何かを言おうとする唇が震える。けれど、その声は届かない。
何も言えない、ただ黙っているシアの姿が、ルイの心をさらに痛ませる。
海風が冷たく、二人の間を吹き抜けていく。その風の冷たさが、まるで自分の心を一層冷徹にしていくようで、その痛みが、胸の奥からじわじわと広がっていく。
「どうして……そんな悲しいこと言うの……?」
シアの声が、震えていた。その音が、ルイの胸を抉るように突き刺さる。
「悲しくなんか……ない」
ルイは無理に言葉を絞り出す。でも、それはまるで壊れた旋律のように、どこか空虚で冷たかった。
「嘘だよ」
シアは、静かにルイに近付く。その顔には、今にも泣き出しそうな、深い悲しみが色濃く浮かんでいた。
「そんな顔してるのに……悲しくないなんて、嘘だよ……!」
「やめろ……!」
咄嗟に、ルイはシアの手を振り払っていた。
シアの目が、驚愕と共に見開かれる。
ルイは、その瞬間にこれまで感じたことがないほど後悔した。でも、もう遅い。
恐怖に震える自分を、シアに見せたくなかった。これ以上、優しさを向けられたくなかった。
決意が揺らいでしまう。甘えてしまう。そうしたら――みんなを巻き込んでしまう。
「…………お願いだから、もう……放っておいてくれ」
言いながら、胸の奥が激しく痛んだ。
もう、引き返せない。
唇を噛みしめ、何度も自分を押さえ込む。
ほんの一瞬、心が揺れそうになったその瞬間を、必死で押し殺す。
そして、静かに、目を逸らした。




