第三十三話 断ち切れぬ歪み、冷刃は仇敵を睨む
深く、しかし心臓や大動脈を避け、致命的ではない一撃。温かい血が噴き出し、イェルマの体が衝撃で後ろにのけぞる。彼の狂気に満ちた表情が一瞬、純粋な驚きに歪む。
──刀はいつの間にか、漆黒と血のような赤黒い気配を放つ絶刃ではなく、少し淀んだ桜色の刀身を持つ刀に変わっている。珠桜の瞳も、異能の発動を示す深い桜色から、元の静かな漆黒に戻っていた。
殺さないよう、意識的に威力を抑えた。澄幽の鍛治士が打った愛刀に、直前で持ち替えていたのだ。
律灯が空間の断絶を無効化してくれると、信じていたからこその危険な賭けだった。一歩間違えれば、珠桜自身がイェルマの空間攻撃に直撃するところだった。
「……ヘヘ、一本とられたぜ」
イェルマは傷口を押さえ、指の間から温かい血がじわじわと滲み出る。それにも関わらず、彼の口元には苦悶と愉楽が入り混じった、歪んだ笑みが張り付いている。痛みさえも快感の材料に変えてしまう、尋常ならざる感性だ。深い斬り傷から滴る血が、不規則な重力に翻弄され、赤い宝石のように空中を漂う。
その直後の行動は──珠桜が警戒する怒濤の反撃や、律灯が想定する痛みによる狂気の爆発とは、大きく異なっていた。むしろ、イェルマは突然、ある種の落ち着きすら見せた。
「……っと、そろそろ"約束の時間"ってヤツだな」
地を這うようにして、イェルマは崩れかかった瓦礫の陰へと身を寄せる。その動きは、傷ついた獣というより、役目を果たした者が舞台裏へ退くようだ。
目に見えない何かに触れた。星溶粒子の流れが微かに乱れ、異能の行使は明らかだが、一見したところ周囲の空間には目立った変化はない。
警戒して律灯は弓を引き絞った。弦が張り詰まる微かな音が、緊張した空気を切る。彼の紫水晶の瞳は、イェルマの一挙手一投足を逃さず追っている。もう防御に専念する必要はなさそうだが、油断は禁物だ。この歪んだ空間では矢が正常な挙動を描くとは思えないが、そこは自分の《調律》で軌道を"定義"し直せばいい。
「ゲホッ……うぇっ……よォよォ、"ファロン"サーマっ」
微かに、しかし確かに聞こえてきたその名前に、珠桜の全身が一瞬で硬直する。表情が氷のように硬く凍りつき、漆黒の瞳の奥に危険な冷光が灯る。彼の右手が、無意識に刀の柄を強く握りしめ、指の関節が白くなる。
──そこに、長年追い続けてきた仇敵が、いるのか。
今はおそらく、ルイやシア、響哉がファロンの方に囚われているはず。一刻も早く、彼らを助ける必要もある。
「……ヘッヘ……オレサマ、ちょいヤベーかもォ……?」
「最期に誰と話しているのかな。助けを乞うような人物が、君にいるのかい?」
「まァ待って、ミオウサン。かわいーカオが台無しだぜ……」
「不快だよ」
一瞬の沈黙。その重い間隙を埋めるように、珠桜はイェルマが覗いている何か──通信の向こうに確実にいるファロンを、冷徹な殺意をもって睨んだ。
目に見えるものは何もない虚空だ。しかし、確かにそこに"敵"がいるという確信が、彼の全身から迸る剣呑の気配となって周囲を圧迫する。周囲の歪みさえも一瞬止んだかのように、重い空気が流れる。
「ファロン……そこにいるんだろう? 今、殺しに行く。ルイ君のことも、返してもらうよ」
その冷たい宣言は、刃のように鋭く、そして確固たる意志に満ちていた。
言葉とほぼ同時に、イェルマは力を抜いた。通信が途絶えたのか、自ら切ったのか。
彼の表情には、約束を果たしたという満足感と、どこか寂しげなような色が微かに浮かんでいる。狂気の炎が、一時的に鎮火したように見えた。
「なぜファロンに協力する? あの男は、根からの悪だ。君の狂気とは、その質が違う」
珠桜が問いかける。血を流しながらも嗤うイェルマを見下ろして。
「キハハ……オレは強ェヤツと歪ンだヤツが大好きだ。ファロンに"お嬢"、あとはオマエもな。みーんな、キチガイでサイコーだ!」
イェルマの瞳に、純粋で混じり気のない狂気が宿っていた。それは信念にも似た、確固たる歪みだ。
「この世界は歪みきってる。だったら、もっと歪ませてやりゃあいいじゃねェか。みんなで楽しく、めちゃくちゃにしちまおうぜ!」
「その歪みが、無実の命を奪っている。過去の大災害も、君の気まぐれも、同じように」
「関係ねェなア。もう、今更だろ。世界が歪んでるって時点で、誰もが被害者で加害者だ」
イェルマは虚空を見つめ、言葉を続ける。
「──オレが苦しんだ分、世界も苦しめばいい。過去のニンゲンサマたちだって、世界を歪め続けた。環境を壊し、戦争を起こし、理不尽で人を苦しめた。その結果、オレたちの世界は歪み、狂ってンだ。
なら、オレたち今のニンゲンだって、世界を歪ませるケンリはあるってモンだぜェ? それが公平ってもんだろォ」
イェルマの体から、力が完全に抜けていく。それと同時に、彼が支配していた歪んだ空間全体が、突然柔らかな、乳白色の光に包まれる。物理法則が急速に正常へと戻り始め、上下が定まり、粉々に砕け散っていた景色が淡く収束し、元の形状へとゆっくりと戻っていく。
狂気の舞台が、静かに幕を下ろす瞬間だった。
「珠桜様……!?」律灯が警戒しながら近づく。
「とにかくここから脱出を……!」
珠桜の言葉は途中で切れた。
ブツン、と世界が鈍い、深い音を立て、すべての音が吸い込まれるような圧倒的な沈黙に包まれた。視界が一瞬、純白に染まる。
数秒後、じんわりと滲むように、色と形が戻ってきた世界で──
「──珠桜様」
逼迫した声が、珠桜の意識を鮮明に呼び起こした。




