第三十二話 歪みに映る修羅の残影 - 2
「キハハハ! いいねえ、最高だぜミオウ!! オレサマの血が騒ぐぜェ!!」
イェルマが再び空間を歪ませようと指を動かす──その刹那、珠桜が《絶刃》を、これまでとは異なる、奇妙な軌道で振るった。刃が虚空を撫でるように動き、まるで彼自身の周囲の空間を、世界からそっと切り取るかのような動作だ。
「あン? なんだァ、妙なことしやがって。刀の振り方忘れちまったかァ?」
イェルマは首をかしげ、その動きが歪んだ空間をさらにねじ曲げ、周囲の風景がぐにゃりと波打つ。彼の瞳には、純粋な好奇心が狂気の炎と混ざり合い、不気味な輝きを放っている。未知の技への興味が、一時的に殺意を凌いでいた。
「取引をしてあげるよ」
珠桜の声は、これまでの冷徹さを保ちつつ、わずかに──計算された交渉の色を帯びる。それは、相手の狂気すらも戦術の材料として利用する、かつての最高執行官らしい隙のなさだった。
だが、その"冷静"は、むしろイェルマの熱狂を逆なでする。
「取引ィ? フザけんな、今殺し合いの真っ最中だぜェ?」
イェルマは口元を歪め、長い舌で乾いた唇をなめ回す。彼にとって、この生死を賭けた狂宴は至上の歓楽であり、血と破壊の陶酔こそが全てだ。それを中断させるような提案など、言語道断もいいところだった。
だが、珠桜は問答無用で淡々と続ける。まるで、イェルマの熱狂的な拒絶など、彼の耳には届いていないかのように。
「選択肢は二つ。私たちをこの空間の外に逃すか、このまま戦いを続けるか、選ばせてあげよう」
「ンだよ突然よー! せっかくのバトルが、おしゃべりなんてしてたらシケちまうじゃねーかー! オレサマのテンションが下がっちまうぜ!」
イェルマは両手を大きく広げ、周囲の歪みを強調するように見せつける。
「どっちを選んでも、最終的にはきちんと殺す。ただ、そのプロセスと時間が変わるだけだ。どちらが好みかな?」
珠桜の言葉は、あくまで淡々としているが、その内容は冷酷なまでに明確だ。選択肢など最初から存在せず、ただ死に至る道程の違いだけが提示されている。その非情なまでの確信が、逆にイェルマの興奮を煽る。
「もっちろん、このまま続行に決まってンだろ!! オレサマはバトルが好きなんだよォ!!」
イェルマは嬉しそうに跳びはね、その動きに連れて空間がぴょんぴょんと波打つ。彼の狂気は、もはや止めようのない暴走機関車のようだった。
そして、その勢いのまま、彼は狂喜の余り珠桜に猛然と突進する。伸ばした手が、珠桜の眼前まで届こうとしたその瞬間──
イェルマの指先から、物質が"削り取られる"ように消失していった。
皮膚、肉、骨、すべてが輪郭を失い、何もない虚空へと解き放たれる。それは溶解でも切断でもない、より根源的な"無"への帰還だった。痛みさえ感じる間もなく、存在そのものが否定され──
「……おろ? な、なんだァこれ……?」
イェルマが初めて、純粋な困惑の表情を浮かべる。自らの身体の一部が、理由もなく消え去っていく不可解さに、一瞬狂気が霞む。
彼は消失した指先を見つめ、次に珠桜の周囲に微かに歪む透明な境界線を見た。
「世界に悪戯を仕掛けるのは、異能者の十八番だよ。君だけの特権じゃない」
珠桜が静かに言う。
彼の周囲には、《絶刃》で切り分けられた、この空間だけの"無"の領域が、微かにゆらめく境界として存在していた。
「ここから出してくれるなら、この退屈な防御はやめて、真剣勝負をしてあげようと思ったけど……残念だ。君は選択を間違えた」
──《絶刃》が生み出した"断絶"。それは空間と空間の間に生じた、一切の存在を否定する"無"の裂け目。その裂け目が珠桜の周囲を囲い、あらゆる攻撃を、触れる前に“無”へと還す。異能の力さえも、その前では意味を成さない。律灯の《調律》よりも一見手軽そうに思えるが──その分、代償が伴う。
「……チッ、面白くねえぜ。そんなもん張り付けてたら、バトルになンねえじゃねえか!」
「そうだね。それなら、今度はこういう卑怯な防御はやめて、元日本男児として正々堂々いこうか」
珠桜を囲む、微かに歪んで見えた“無”の境界が、静かに霧散する。再び、彼の立つ空間と、イェルマが作り出した狂気の空間が途切れることなく繋がった。あたかも挑発に乗り、イェルマの求める"真剣勝負"を受け入れたかのように。
再び、珠桜は刀を静かに、しかし確固たる意思をもって構える。一方、イェルマも大きく腕を広げ、歪んだ空間を背景に、珠桜を待ち構えた。傷ついた獣が、より興奮して牙を剥くように。
「来いよォ!! ミオウ!!」
珠桜が地を蹴った。目にも留まらぬ速さで移動し、一瞬でイェルマの眼前に迫る。その動きは、先ほどまでの計算尽くされた回避や受け流しとは異なり、直線的で力強い、ある種の蛮勇にも見える突進だ。
だが、空間操作による防御ならイェルマも負けてはいない。彼は掌を翻し、珠桜と自分の間の空間を急激に圧縮し、無形でありながら鋼よりも硬い壁を立ち上げようとする──
「《調律》」
律灯の囁くような、しかし芯の通った声が、空間の歪みを整える。イェルマが作り出そうとした空間の圧縮壁が、一瞬で"通常の空気"へと定義し直され、無力に消散する。律灯の紫水晶の瞳が、一点を睨みながら強く輝いていた。
そのわずかな隙に──珠桜の手にした刀が、イェルマの胸を大きく切り裂いた。




