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第三十一話 歪曲遊戯、舞台に立つのは

「珠桜様。奴のことは僕が」


 律灯が一歩前に出ようとするが、珠桜の手が微かに上がり、静かにそれを制止した。その動作は小さいが、揺るぎない威厳を帯びている。


「大丈夫だよ。それよりも、君自身が死なないように気をつけてくれ」

「……承知いたしました」


 律灯は一歩引き、姿勢を低く保つ。主人の命令は絶対だが、それ以上に、この狂気に満ちた敵を前にして珠桜を単独で曝すわけにはいかない。

 彼の持つ《調律》の異能は、直接的攻撃よりも、環境の制御と主の補助に特化している。この理不尽な空間で、主を守る盾となり、攻撃の瞬間を確保するのが彼の役目だ。


「ククッ! ソイツは初めて見る顔だなァ! 新しいオトモダチかァ?」イェルマが興味深げに律灯を舐めるように見る。その視線は、玩具を見つけた子供のようでもあり、獲物を選ぶ捕食者のようでもあった。

「答える義理はない」珠桜の声は氷のように冷たく、鋭い。それ以上の会話を拒絶する声色だ。


「オレサマが一度も見たことねえってこたァ、戦闘員じゃねえのかなあ。非戦闘員ってやつか! 記録係とか、お茶汲みとかさァ!」


 イェルマは首をかしげ、嘲うように言葉を投げつける。その口調は、明らかに律灯を見下していた。


「今なら見逃してやるぜ? オレサマは強ェヤツにしか興味がねえ。へなちょこはァ、オレサマやさしーから、そっとしといてやるよ」

「ご心配なく」


 律灯が静かに、しかし芯の通った声で言い放つ。紫檀色の瞳の奥に、冷徹な決意の炎が灯る。彼は珠桜の──また、響哉の影として、目立たぬ存在であることを選んできたが、決して無力ではない。


「僕も戦えますから」

「ほほ〜う? ンじゃ、手始めに……っとォ!!」


 イェルマの言葉が終わるか終わらないか、彼の背後にあるはずの壁面が突然、巨大な口のように裂け、無数の錐状の結晶が雨あられと律灯めがけて射出された。それらは重力を無視し、あらゆる角度から、あたかも生き物のように軌道を変えながら襲いかかる。



 遊びの始まりだ。



 次いで、空間そのものが爆発した。

 イェルマの指先が触れた一点から、歪みが波紋のように拡大し、周囲の床・壁・天井が一斉に粉砕され、鋭利な破片の嵐となって律灯を襲う。

 重力の向きが十方向に分裂し、破片は螺旋を描きながらあらゆる角度から殺到する。無数の刃が、三次元空間を埋め尽くす。


「《調律──護れ》!」


 律灯は一瞬で《調律》を発動。力の流れを整えるために掌を前に突き出し、全身の神経を一点に集中させる。頭の中を駆け巡るのは、同じ異能者であり、武術の達人である珠桜から叩き込まれた数多の教えだ。


『戦闘で必要な予測とは、相手の"意思"を読むことではない。相手の"可能性"を絞り込み、その中で最も合理的な行動を、最も危険なものとして計算することだよ。

 君なら、その合理的な一手を完全に潰せる』


 眼前に迫る破片の群れ。一つ一つの速度、質量、軌道。重力を無視した不規則な動きは、人間の直感を完全に欺く。だが、律灯は動じない。彼の異能は、直感ではなく"定義"で戦うものだから。


(──《この空間を、直径三メートル以内に進入する、速度毎秒百メートルを超える固体物体を『受け付けない』とする。侵入を試みるそれらの物体に対しては、それらが持つ運動ベクトルを『無効』と定義する》)


 律灯は心の中で条件を完結させる。それは契約であり、世界に対する命令だった。

 現実が、一瞬だけ軋む。星溶粒子が細やかに拡散し、彼と珠桜を中心とする微小な領域に、絶対的な"理"の結界を張る。

 無数の破片が結界の境界でぶつかり合い、火花と軋む音を立てて跳ね返される。条件をすり抜ける、意図的に遅く放たれた無数の細かい破片が一部、防御を貫き、律灯の衣服を裂き、肌に浅い切れ目を刻んでいく。熱い痛みが走る。だが、致命傷は防ぎ切った。珠桜の位置も、寸分の狂いなく計算に含まれていた。主人の衣装の一片さえ、損なわせはしない。


 律灯は微かに息を整える。額に冷たい汗がにじむ。この厳密な空間定義は、彼の集中力と異能量を急速に削り取っていく。

 だが、次の一手を、間髪入れずに打たねばならない。


「キハハハ! いいねェ、その反応! 死にてえのか、生きてえのか、ハッキリしてるゥ!」


 イェルマは愉悦に身を震わせながら、足元の破壊された瓦礫の一片に軽く触れる。その接触点から、瓦礫が瞬時に伸長・再構成され、鋭利な黒曜石の槍へと変質する。そして、空気を切り裂く音もなく、まっすぐ律灯の心臓を貫こうと放たれた。


 その刹那、律灯はもう一度《調律》を発動しようとしていた。


 ──対象の瓦礫槍は、直線軌道から『逸脱せずにはいられない』。


 思考は瞬時に完結するが、《調律》の完了まで──わずかな"間"が存在する。槍は既に動き出しており、その間を致命的に侵食する。

 体が追いついていない。間に合わない──


 ──ガシャン!


 漆黒の刀閃が、虚空を切り裂き、その槍を粉々に砕く。

 珠桜が、気配も風切り音もなく二人の間に滑り込んでいた。刀を振るった余勢で、周囲に散らばる瓦礫がさらに微塵に吹き飛ばされる。その動きはあまりにも自然で、あたかも最初からそこに立っていたかのようだった。


「私のことは気にしないで。自分のことに集中するんだよ。そうじゃないと──死ぬ」


 珠桜の声が、静かに、しかし鋭く空間に響く。

 その声音は冷たく、どこまでも透明で、一切の温もりを感じさせない──律灯が長年慣れ親しんだ、あの穏やかで優しい主人の声からは、かけ離れたものだった。


「……"準備"ができたら、その時は加勢します」

「もちろん」


 律灯がかすかに息を吐き、次の段階へと思考を切り替える。主の言葉は、常に絶対的な信頼に値する確かな指針だ。彼は微かに姿勢を沈め、重心を安定させ、紫水晶の瞳を細めて敵の異能が編み出すことができるであろう、全ての可能性を見据えようとする。

 一つ一つの可能性を解析し、組み合わせを計算する。その全ての分岐が見極められた時──彼の異能は、その敵の異能そのものを再定義し、無効化する。


 珠桜はゆっくりと、静かに、イェルマへと視線を移す。

 その瞳は黒よりも深く、闇そのものを凝縮したかのようだ。そこに宿るのは、怒りや憎しみといった雑多な情動を一切排した──ただ、冷徹無比な戦略計算と、唯一無二の"使命"のみが結晶化した、純粋無垢な殺意の眼差し。それは、人間の感情を超越し、ある種の自然法則や物理現象にも似た、圧倒的な「破壊の意志」そのものだった。



 イージス・コンコードの"最高執行官"として、数多の異能殺人犯を断罪し、人類存続のための粛清を執り行ってきた──伝説の殺戮執行者の復活だ。



 律灯は息を呑んだ。

 珠桜が最高執行者として最も活動していた時期は十年近く前の話だ。幼かった律灯は、その頃まだ"奥"にいた。

 だから、この眼差しを、彼は知らない。主人が最深部に封じていたこの貌を、噂や記録の断片でしか聞いたことがなかった。背筋に、氷の針が走るような戦慄が走る。これは、育ての親でも庇護者でもない──紛れもない"執行者"の顔だ。


「おおおォ?」


 イェルマの動きが、ピタリと止まった。

 獣じみた笑みが、顔の筋肉を極限まで引き伸ばすように歪む。


「オイオイオイオイ…………そうだよ……ソレだよ!!」


 イェルマは狂喜の声を上げ、身を仰け反らせる。その喜びは、狂信者がついに神の啓示を目の当たりにしたような、歪んだ陶酔に満ちている。


「そうだ! ソレだ! ソレだぜ、ミオウ!! 久しぶりだなあ! オメエのその目、何年ぶりだ!?」

「……」


 珠桜は何も答えない。沈黙を保ち、静かに、しかし確固としてイェルマを見据え続ける。その無言の圧力が、かえって空間全体を支配し、イェルマの作り出した歪みさえも一時的に押し留めるかのようだ。

 珠桜の右手が、腰に差した漆黒の刀の柄へと、ゆっくりと、揺るぎない確信を持って伸びる。

 鞘走る微かな金属音が、この狂気に満ちた空間に、冷たい刃物のように鋭く、重く響き渡った。


「キヒヒヒ……! そうだよ、そうこなくっちゃあよォ!

 本当のオメエはそれだろォ! なのに引きこもりやがってよォ、ぬるいんだよ、ヌルすぎてヘドが出らァ!」


 イェルマの赤く爛れた瞳が、底知れぬ狂気の光を迸らせる。それは、ついに長年待ち望んだ"最高の遊び相手"との再会を果たした、純粋な歓喜の色だった。

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