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第三十話 歪められた空間に宿る、忘れえぬ罪科 - 2

「Это приказ, "верховный исполнитель". Быстро иди сюда.(依頼だ、"最高執行官"殿。さっさと来い)」


 昔のロシア軍服を纏った痩身の老人。空間転移の異能を持つ補助者が開いたゲートの向こうから、意地悪げに覗き込み、皺だらけの顔を歪めてニヤリと笑う。その目には、少年を(さいな)むための純粋な悪意が煌めいていた。

 当時の珠桜は、まだ精神が成熟しきっていなかった。十代半ばの少年に過ぎない。


「......Понял. Большое спасибо, господин верховный лидер.(......承知いたしました。ご丁寧にどうも、最高指導者閣下)」


 豆鉄砲を食らったような顔の老人を押しのけ、珠桜はそのゲートをくぐった。


(ロシア語くらい、勉強してるし)


 転移先に広がっていたのは、急造の軍事施設だった。

 無機質なプレハブの建物群、鋭利な鉄条網で厳重に囲まれた敷地、監視塔に配備された重火器の鈍い光。人類のスペースコロニー移住計画を推進するため、そして国という概念が崩壊した世界で、再び人類を束ねるために作られた暫定的な統治機構。


 それが、新世界政府。人々は、『イージス・コンコード』と呼んだ。


「最高執行官閣下。本日の執行対象は、毒霧生成能力を有する異能者です」

「それで私を?」

「はい。一般市民二千名が、犠牲となりました」


 報告書を読み上げる事務官の声は、冷徹に機械的だった。あたかも日々の気温や湿度を告げるかのような、一切の感情を排した事務的な調子。だが、その平板な音節の一つ一つが、二千という生きた命の消滅を告げていた。


「……言っておきますけど、私だって毒を吸えば死ぬんですよ」

「ならば、毒を吸わなければよいのではないですか。毒を吐き出される前に、対象を排除してしまえば」

「随分と簡単に言いますけど……」

「できますよね? お出来になるからこそ……閣下は、その地位にいらっしゃるのです」



 無機質で冷たいコンクリートの部屋。手術室のような不気味な明るさ。

 その中央の鉄製の拘束具に──痩せた男が縛り付けられていた。目は血走り、恐怖と必死の色で爛れている。


「ハハ……取引しようぜ、な!!」

「……」

「なあいいだろ! オレ、死にたくねえよ!! 手伝うから! なんでもするから!!」


 処刑場である地下シェルターに引きずり込まれる異能者の多くは、最期にこうして命乞いをした。泣き叫び、額を床に擦りつけ、理性も尊厳も捨てて慈悲を懇願した。


(……自らの手で、何の罪もない人々を殺しておいて、よくそんなことが言える)


 漆黒の刀は、振るわれるたびに生温かい血に濡れ、そしてまた冷たくなった。


 その繰り返しが、少年の手を、"最高執行官"の手へと変えていった。



◇◆◇



「……驚いた。まだ覚えている者が残っていたとは。てっきり、あの国の魔法士たちに全員始末されたかと思っていたよ」


 珠桜の声には、複雑な情感が沈殿していた。懐かしさや喜びなどではない。むしろ、徹底的に葬り去ったはずの過去の亡霊が、再びこの世に現れたことへの忌避感。胸の奥に冷たい鉛塊が沈み、重苦しい圧迫感が内臓を締め付ける。


「ったりめェだろォ?」


 イェルマが、狂気の笑みをさらに深くねじ曲げる。その表情はもはや人間のものではない。獣か悪魔か、あるいはそれらを超越した邪悪そのものだ。頬の筋肉が不自然に隆起し、口角が耳元まで引き裂かれているように見え、歯茎の赤みが異様に生々しい。


「忘れられるわけねェよ。みーんな、オマエに震え上がってた。異能者をバンバン、バンバン狩り殺しやがってよォ……」


 珠桜の表情が微かに曇る。イージス・コンコード最高執行官として、数えきれぬ異能者を粛清した過去。

 それは彼にとって、決して誇れるものではない。人類存続のための必要悪であり、彼自身が背負い込んだ十字架だった。


 しかし、あの鉄臭い匂い、処刑前の絶叫、刃が骨を断つ鈍い音は、今なお記憶の粘膜にへばりついている。


「やむを得なかった」


 珠桜が低く、しかし揺るぎない声で呟く。それは自分自身への確認であり、変えられない事実への認識だった。


「人類を守るためには——」

「やむを得なかった?」


 イェルマが首を傾げる。その動作がゆっくりと、まるでスローモーションのように見える。時間の流れまで歪んでいるのかもしれない。


「ンな言い訳なンざどうだっていいんだよッ! あん時のオマエはサイッコーだったぜ!!」


 突然、イェルマの表情が豹変する。狂気の笑みが消え、瞳の奥に激しい興奮の炎が点火された。それはついに待ち望んだ獲物を目の前にした捕食者の眼差しだ。


「ずっと戦ってみたかんだァ……ずっと、コソコソ隠れやがって。ファロンのヤローがそんな怖かったか? ああん?」


 イェルマの瞳に渦巻く狂気が、さらに濃厚になる。その名を口にされるや、珠桜の表情が鉄のように硬く引き締まる。拳がわずかに震え、指の関節が白くなる。

 ファロン・ヴォーベール。錬金の異能者。そして──宿敵。


「……奴は関係ない」

「嘘だね。ビビってンだろ? なんだっけ、ルイ君だっけ? それを、奪ったせいで、殺されるかもしれねェって。だから隠れてたンだろ? あの山奥のちっちゃな村でよォ」


 その指摘に、珠桜は沈黙で応じる。喉の奥で言葉が氷のように詰まり、呼吸が浅く、速くなる。瞳孔がかすかに収縮する。

 ──澄幽の存在が、完全に露見している。最も守るべき秘密が、敵の掌中にある。



「……この空間から出せ。今すぐに」


 ようやく絞り出した珠桜の声は、低く、掠れて鋭い。それは命令ではなく、交渉の余地を断ち切る最終通告だった。


「私にはやるべきことがある」

「ヤーダネ」


 イェルマは子供が駄々をこねるように首を振る。その動作が、さらに現実離れしたスローモーションに見える。髪の毛一本一本が別々の重力に引きずられるように動き、視覚に違和感を覚える。


「オレがファロンに頼まれてンのはオマエの足止めだしな。今やぁっと、ルイ君とファロンが楽しくお話ししてる時間なんだ。邪魔しちゃいけねェ



 たァっぷり、ゆっくりと──遊んでやンよォ……!」




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