第二十九話 レプリカ・ホーム - 4
「え……?」
ファロンが、かすれるほどに微かな声で謝罪を口にした。あまりに唐突で、ルイは反射的にわけのわからない声を漏らした。
ファロンはまっすぐルイを見ている。だが、その鋭い赤い瞳の奥に、かすかな、しかし確かな後悔の色が、薄墨のように滲んでいるのが見えた。それは、計画の一部でありながら、なお人間らしい感情の残滓なのか。
「今、なんて……」
「確かに、君の言うとおりだ。断言しよう。ミオウたちに手を出すのは、私の私的な復讐であり、造り出したい理想の世界とは直接関係のないことだ」
「復讐って……」
「ナティと、お前のことを奪ったことへの復讐だ」
「どういう……ことだ?」
ルイの声がわずかに震える。銃口が、ほんの少し揺れた。心の動揺が、そのまま武器に伝わっている。
「お前の父ナサニエルはミオウに殺された。あの屋敷のメイドからも、聞いただろう?」
「……嘘だ。珠桜さんはそんなこと、俺に一度も話してない!」
「話すわけがないだろう。あの男にとって、最も不都合な真実なのだから」
ファロンはゆっくりと、躊躇いなく一歩踏み出し、銃口がその胸の布地に触れるほど近づいた。その動きは、自殺行為とも思えるほど無防備だった。
「お前の父、ナサニエルは、ミオウの手で殺された。それは『保護』でも『事故』でもない。明確な殺意に基づく、計画的な殺人だ」
「……証拠は?」ルイの声は、もう完全に押し潰され、かすれている。
「必要か?」ファロンの目が、深く沈む。
「あるなら……見せろ」
「もちろん、ある。これを見るといい」
ファロンは指を軽く弾く。すると、二人の間の空間が微かに歪み、周囲の光を吸い込むように一枚の鮮明な映像が浮かび上がった。それは写真以上にリアルで、あたかもその場に立ち会っているかのような臨場感を伴っていた。
無機質で冷たいコンクリートの部屋。手術室のような不気味な明るさ。その中央で、深緑の髪の男──夢の中で見た、優しくも頑なな面影のナサニエルが、黒髪の男の放った刀閃に貫かれ、無言で崩れ落ちている。
その瞬間、刀を振るい、ナサニエルを殺しているのは、服装は今とは違い、顔立ちもより鋭く若々しいが──眉間の皺、口元の緊張、刃を扱う無駄のない姿勢すべてが、間違いなく、黒華珠桜の姿だった。
「…………嘘だ」
ルイの唇が、無意識に動く。
「そんなはずがない。きっと何かの間違いだ……!
この映像だって、お前がいいように作り出しただけだ!! きっと、そうなんだろ!?」
ルイは叫んだが、その声にはすでに確信がなかった。むしろ、叫べば叫ぶほど、虚しい音だけが虚空に散るのを感じた。
空中に浮かぶ映像は静かに、しかし残酷なまでに鮮明に、父親の最期の瞬間──身体を貫かれる衝撃、力を失い崩れ落ちる様子、そして最後の瞬間にナサニエルの目に映った、何かを理解したような悲しげな光を、ループするように繰り返し映し出している。
「……可哀想に」
ファロンが、深い憐憫に満ちた声でつぶやく。その憐れみは、ルイにとってはむしろ屈辱だった。
「実の親を奪い、その上、その子どもの養育者を気取る。あの男は、そんな下劣で、最悪な偽善者だ。彼が君に与えたものは、すべて借り物か、あるいは洗脳の材料に過ぎない」
「珠桜さんは……そんな人じゃ……」
「まだあの男を庇おうとするのか? これほどの証拠を突きつけられてもか?」
ファロンは、ついにため息をついた。それは、全てを見通した者の、疲れたようなため息だった。
「ルイ。君は洗脳されているんだ。長い時間をかけて、細やかに、徹底的に、心の奥底まで洗脳され続けていた。彼が君に与えた『優しさ』は、君を従順な道具に仕立て上げるための甘い罠だった」
「……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! そんなわけ……!」
理性の支柱が、一本、また一本と鈍い音を立てて折れていく。ルイは膝の力が突然、完全に抜け、床に崩れ落ちた。手のひらで冷たい木の床を押さえつけるが、視界がぐらぐらと波打ち、胃の底が冷たくなる。
珠桜は自分を育ててくれた。寂しい夜も、傷ついた時も、迷った時も、いつも傍にいて、優しい言葉と確かな導きを与えてくれた。
あの温もりは、偽りうるものだったのか? その珠桜が、父を殺した? 優しさと殺意、庇護と謀殺、そんな矛盾が、どうして一人の人間の中に共存しうるのか?
ルイの頭は、相反する記憶と感情で引き裂かれそうだった。
「だって、珠桜さんが父さんを殺す理由がないだろ!! それに、俺を匿う理由だって!!」
「理由は単純。一方的な蹂躙と、利己的な打算だ」
「はぁ……!? なんだよ、それ!」
ファロンの言葉は、鋭く冷たい刃のように突き刺さる。
「君が育った極東の勢力は、昔から異能者を無慈悲に殺し続けてきた。ナティも……君の母エレオノールだって、その犠牲者だ」
ファロンの声は次第に熱を帯び、長年押し殺し、蓄積してきた怒りが、冷たい声音の底からにじみ出る。
「私の仲間も、何人も殺された。彼らはただ生きていただけだ。生きるために多少能力を使うことはあったが、それだけだ」ファロンは一歩近づき、その眼がルイを貫く。
「君がミレディーナを殺したのも、全てミオウが君に『正義』だ、『そうすべきだ』と刷り込んだ結果に過ぎない。君は己が行いの本質──それが単なる排除であることすら疑えず、彼の意のままに非道を働く、優秀で無自覚な道具にされてしまった」
「……違う」ルイの声はかすれ、揺れる。ミレディーナを倒した時の、あの複雑な達成感が蘇る。
「……ナティと君の能力は、世界を変える可能性に満ちていた。誰にとっても、あまりに有用だった」
「違う」ルイは首を振る。自分の持つ力が、そんなにも恐ろしく、強大なものであると、受け止めたくなかった。
「だけど、ナティは賢く、強い意志の持ち主だった。脅威になる前に始末されなければならない存在だった。しかし、まだ成長する前の、純粋な君であれば、洗脳し、懐柔できる……あの男はそう読んだ。だからこそ、君を我が物とした」
「違う!!!!」
ルイの絶叫が、偽りのリビングルームに響き渡る。それは否定であり、しかし同時に、崩れかけた信頼の城壁を必死に支えようとする、切ない叫びでもあった。頬を伝うものが、汗なのか、それとも涙なのか、自分でもわからない。
ファロンは跪き、ルイと同じ高さになる。床の冷たさが、膝から伝わってくる。その目は、狂おしいほどの確信と、歪んだ憐れみに満ち、ルイの瞳の奥深くまで入り込もうとする。
「真実は痛いものだ、ルイ」ファロンの声は、静かな諦念に包まれている。しかし、その言葉の一つ一つの端には、鋭い棘が隠されていた。「だが、偽りの温もりに溺れて、真実から目を背け続けることよりはマシだろう。傷ついたままの真実は、いつか瘡蓋になる。だが、癒えない嘘の傷は、いつまでも膿み続ける」
「今、私の仲間がミオウのことを足止めしている。今なら、君はあの男の巧妙な呪縛から逃れ、本当の自分を取り戻せる最後のチャンスだ」
ファロンはルイの眼前に、ゆっくりと、まっすぐに手を差し伸べた。それは、救済への誘いであり、同時に、すべての疑念と迷いを焼き尽くす最終通告だった。その掌には、世界を修復する力と、過去を取り戻す約束が、確かに見えるかのようだった。
「帰ろう、ルイ。私の元へ。そして、共に、本当の意味で世界を修復しよう。
君の力で、ナサニエルにも……もう一度、会えるかもしれない。君が本当に属すべき場所へ、還ることができる」
ファロンの言葉が、ルイの混乱しきった思考の隙間を、重い鉛のように埋め尽くす。珠桜の優しい笑顔、安心させられる掌の温もり、困難な時にいつもそばにいてくれたあの存在は、今やすべてが精巧に計算された偽りの演技に思えてくる。育ての親への信頼の絆は、ファロンが投げつけた「真実」という鋭い鎚によって、無数の粉々の疑念へと打ち砕かれ、暗闇に飲み込まれていった。
ファロンの手が差し伸べられている。その手の先には、全ての答えがあり、すべての苦しみと迷いからの解放が、輝く約束として確かに見えていた。
──その時。
唐突に、部屋の隅にある古びた木製キャビネットの上のテレビから、ブーン、という低くうなるような起動音が聞こえ、画面が青白く明るくなった。
「……なんだ?」
ファロンでさえ、わずかに眉を上げ、計算外の事態に驚いたように見えた。これは彼の仕組んだ演出ではないのか? ルイは浅く速い息を繰り返し、乾いた目を画面へと釘付けにした。
『ゲホッ……うぇっ……よォよォ、ファロンサーマっ』
軽薄で、しかしどこか歪んだ痛みを滲ませる男の声が、スピーカーから軋むように流れ出る。それと共に、ノイズだらけの画面に映し出されたのは──
『……ヘッヘ……オレサマ、ちょいヤベーかもォ……?』
見慣れない、過剰な装飾が施されたダボっとした装束をまとった、血まみれの男。肩から脇腹にかけて、ざっくりと切り裂かれたような深い傷口が開き、その裂け目からは止まることなく真紅の血が泉のように溢れ、豪奢な衣装を黒く濡らし続けている。その血量と蒼白さから、このままでは確実に失血死するのは誰の目にも明らかだった。
「……"イェルマ"。何をしている?」
ファロンの声に、かすれた震えが混じっている。ルイは思わずファロンの横顔を覗き込んだ。彼は目を見開き、瞳孔が針の先のように縮み、画面に映る瀕死の男と、その致命傷に釘付けになっていた。
カメラ──あるいはイェルマの持つ何かかの画角が、ぐらりと不自然に動く。血の海に膝をつく男の背後が映し出される。
金色の、異能の光が歪んだ空間を満たす中。
──ゆらりと揺れる、漆黒の影。
桜の花弁の柄が、鮮血のように赤く染まっている。
その奥に、紫檀色の髪が静かに揺れるのが見えた。弓は、限界まで引き絞られ、緊張した弦が微かに震え、ある一点を、確固たる殺意をもって狙っている。
(……あ、あ……)
ルイの喉が、軋むような音を立てる。映像の向こうにいるのは、紛れもなく珠桜だ。しかし、その佇まい、その周囲に漂う非情な気配は、ルイが知る"育ての親"とは似て非なる、何か別の存在──"黒華珠桜"そのもののように映った。
『最期に誰と話しているのかな。助けを乞うような人物が、君にいるのかい?』
珠桜の声が、歪んだ電波を介して流れてくる。それはルイが知る、穏やかで優しい声ではなく、鋼を研ぐような、冷たい刃物の響きだった。
『まァ待って、ミオウサン。かわいーカオが台無しだぜ……』
『不快だよ』
一瞬の沈黙。そして、珠桜の声が、この偽りの家のリビングルームの隅々にまで、はっきりと、重く届いた。
『ファロン……そこにいるんだろう?』
その呼び名は、尋ねるというより、断定していた。
『今、殺しに行く。ルイ君のことも、返してもらうよ』
ピー──。
映像は、その言葉を最後に、ノイズの嵐へと変わって途絶えた。テレビの画面は再び、無機質な青白い光を放つだけになった。
深い、重い沈黙が部屋を支配する。ファロンの手は、まだ差し伸べられたまま。しかし、その表情は硬直し、先ほどの慈愛に満ちた表情は消え、危険なまでの緊迫感と怒りに塗り替えられている。
「……ルイ。決断の時だ。私の手を取るか、それとも、偽りの父の影に縋りついて、彼と共にこの歪んだ世界で滅びるか」
ファロンの声は低く、しかし先ほどよりはるかに切迫し、逃げ場を失った獲物を追い詰める狩人のような響きだ。
「早く。ヤツが来る前に……答えを聞かせてくれ」
ルイの視界は、自覚のない涙と深い混乱でぼやけ、両側から押し潰されそうになる。
震える手が、ゆっくりと、無力に冷たい床から離れていく。ファロンの手へと向かうその動きは、もはや自らの意志というより、深い絶望と、積み重なった喪失感が生み出す重力に、魂ごと引き寄せられる、抗いがたい落下のように見えた。
全てが、無意味な螺旋の中で崩れていく。
唯一の救いの手は、今、この目の前にあるのだろうか──




