第二十九話 レプリカ・ホーム - 2
その声は驚くほど穏やかで、親しげですらあった。朝食の席で家族に語りかけるような、自然な平穏な響き。ルイは一言も返せず、喉が詰まった。背筋が凍りつくような警戒心と、この異常なまでの"日常"の演出との圧倒的な落差に、思考が一瞬、白く燃え尽きるように止まった。
ファロンはそっと陶器のカップをテーブルに置き、軽く手を広げて周囲を示した。その動作は優雅で、まるで美術館の学芸員が愛蔵する作品を紹介するようだった。
「懐かしいか? ここが、かつて君が幼少の頃を過ごした家だ。正確には……そのレプリカと言うべきか。全て、私の記憶の色彩と質感を元に、丹念に再現したものだ」
「……知ってる」
ルイの声は、砂漠のように乾き、ひび割れていた。眼球が、無意識にこの偽造空間の隅々を走査する。
本棚に並ぶ古書の背革の感触、窓枠の木目の流れ、カーテンの縁からほつれた一本の糸の色まで。すべてが恐ろしいほどに完璧で、その完璧さ自体が、作り手の偏執的なまでの執着を暴き、底知れぬ不気味さを醸し出していた。
「夢を見た。この家で……お前と、緑色の髪の男が、言い争っていた」
「それは夢ではない」
ファロンの答えは、速く、確信に満ちていた。
「……なら、なんだよ」
ルイの拳がわずかに震える。指の先が氷のように冷たくなる。知りたくない真実という重い扉が、いま、目の前で軋みながら開きかけている。その向こうにある光景に、魂が本能的に拒絶の呻きを上げる。
ファロンはゆっくりと立ち上がり、一歩、ルイに近づいた。しかし、攻撃的な気配は微塵もない。ただ、深遠な悲しみと、長い年月をかけて熟成され、変質した諦念にも似た眼差しを、ルイに注いだ。それは、失われた時代そのものを見つめるような、複雑で重い視線だった。
「君の記憶だ、ルイ。君が──過去に、"強大すぎる異能の代償として失ってしまった"、過去の記憶の一片」
ルイの胸を、数刻前の記憶が鋭く貫く。
メイド、ナターシャとの戦いで、彼女の異能を消した。その直後、シアについての記憶を一度失ってしまった、あの瞬間のことが、脳裏に過ぎる。
もし、ファロンの言うことが真実なら──
(俺は、過去にも誰かの異能を──消した?)
「その光景には誰が出てきた? 全て、教えてあげよう」
ファロンが柔らかく、しかしその底に冷たい鉄のような確信を湛えた微笑みを浮かべて言う。その笑顔は、全てを知る者が、無知な者を憐れむ奇妙な慈愛に満ちていて、ルイの皮膚を逆なでし──
「……っ、そんなの、どうだっていい!」
ルイの声が、初めて感情の襞を引き裂いて迸った。理性の薄皮が剥がれ、渦巻く不安と怒り、そして底知れぬ恐怖がそのまま言葉となって溢れ出る。
「シアと響哉はどこにいる!」
「……君はやはり、ナティの生き写しのようだ」ファロンは少し首をかしげ、ため息とも笑いともつかない音を漏らした。「いつも、目の前の者ばかりを最優先にする。私が介入する隙など、一切なかった。あまりに愚直で、非合理的だ」
「質問に答えろ!」ルイの怒声が、この偽りの家庭の温もりを装った空気を揺さぶり、ひび割れを走らせる。
「命までは奪っていない。多分な」ファロンの答えは意図的に曖昧で、ルイの焦りと不安をより深く掻き立てるように鈍く響く。
「お前……ッ!!」
ルイは思わず一歩踏み出そうとするが、足が床に釘付けになったように動かない。この空間そのものが彼を縛っているかのようだ。
無闇に殴りかかれば、再び消し炭にされるだけだ。無駄死にはしたくない。まだ、確かめなければならない真実がある。
ルイはどうにか自分を落ち着かせるべく、歯を食いしばり、俯いた。微かに血の味がして、思考が冷えていく。
「……お前の理想は、あの屋敷でメイドから聞いた」
その言葉を聞き、ファロンの瞳が、静かな炎のように輝きを増した。ようやく、核心に触れる話題が始まったのだ。
「そうか。それならば、話が早い」
ファロンは両手を軽く広げ、まるで世界の全景を彼の掌中に収めるように、ゆっくりと優雅に動かした。
「ルイ、手を貸してくれ。この歪み、この衰退、この絶望そのものを──世界を、元の輝きあった姿へと戻そう」
ファロンのその言葉と、彼の表情を見て、ルイは息を詰まらせた。
──夢の中で見た、若き日のファロンとは、明らかに異なっていた。
あの彼の目には、友人への焦りや、理解されないもどかしさが宿っていた。
しかし今、ルイを見つめるその瞳には、一切の淀みも迷いもない。純粋な、ほとんど信仰にも似た確信に満ちている。世界を救うという、ただ一つの目的のために、すべての感情が研ぎ澄まされ、硬質な意志へと結晶化しているようだった。
「君の能力を、私の力を増幅させる触媒として使わせてくれ。
私の力は、存在するものの本質を、その根源から別のものへと変質させる。あの屋敷も、この家のレプリカも、全て、君のゴーグルに行ったのと同じ原理だ。
しかし、今の私の力では限界がある。等価交換の域を脱することには成功したが、数少ない残存物資を変換していっても、かつてこの星が持っていた豊穣と輝きを、全体的に取り戻すにはあまりに足りない。
君の力で、この変換効率を幾何級数的に高め、その規模を星全体へと拡大してほしい。そうして、世界そのものを、傷つく前の健全な状態へと──文字通り『修復』する」




