第四話 優しさは、灼けた金に溶けて - 2
距離という概念が、崩壊していた。
目の前に"いたはず"の女神は、"瞬いた瞬間"にはもう触れていた。
詰められたのではない。"詰められた"という認識ごと、最初から存在していなかったかのように――
金糸で紡がれた指先が、ルイに触れる。
「――あ゛あッ!?」
久しく感じていなかったような、”確かな感触があるということ”を、喜ぶことはできなかった。
焼けた。
熱が走ったのではない。
皮膚が"弾けた"。
焦げる。溶ける。
肉の繊維が裂け、血管が膨張し、内部から爆ぜる。
骨が焼かれる。神経が炙られる。
ジュウウウ……
煙が上がる。
焦げた肉の匂いが、鼻の奥を焼いた。
服が、一瞬で炭になった。
皮膚が、灰に変わった。
――熱い。
……あつい。
熱い。
(……熱い、熱い熱い熱゛い゛熱゛い゛ッ――!?!?!?!?)
痛みを感じなかった。痛みを知覚するための神経が、もうない。感覚が、真の意味で焼き切れている。
ただ、"焼かれている"という事実、情報だけが頭蓋を突き破って流れ込んできて、「熱い」という錯覚が深く、鋭く、刻み込まれる。
考えられない。思考が断ち切られる。脳が機能しない。
"金"が、ルイの全てを焼いてく。
本能的にその手を引き剥がそうとした。だが、腕は動かない。先ほどまでと同じ。この空間の性質。動かそうとしても、結果に表れない。
まだ、金糸の指は蝋燭の炎のように溶けながら、ルイの手を侵食している。
このままではだめだ、
早くこれをどかさないと、
(――ッ、死……)
『やっと、見つけた』
耳ではなく、脳に直接響く声。
骨に染み込むような、否応なしに魂を揺さぶる音。
『"ナティ"』
『私のナティの――”ルイ”』
その言葉と共に、焼ける苦しみが唐突に消えた。……そして、消えたのは、痛みだけではない。
左手が、ない。
「っ……!!」
――いや、そこに"形"はある。だが、"感覚"が、ない。
握ることも、動かすこともできない。空間の影響だけじゃない。先ほどまでと違い、"握ろうとする"こと"動かそうとすること"さえもできなかった。
ルイは点滅する視界の端に、"そこ"を見た。左手の位置にあったのは――異質な輝きを放つ金の瘢痕。自分の腕じゃない。何か、違うものへと変質している。だから動かせなくて、生の感触もなくなり、あまりにも、あまりにも――
歯を食いしばる。口の中いっぱいに血の味が広がる。
震える右手で、どうにか銃を構え――
『……そんなものは、君には不要だろう』
その瞬間、視界の端で金色の煌めきが舞う。
刹那、銃ごと手が貫かれていた。
「ぐッ……!!!!」
痛みよりも速く、別の金色が踊る。
次々と飛翔する刃。"逃げる"という選択肢すら与えられないまま、鋭利な金糸がルイの肉を裂いていく。
傷は、深すぎない。致命傷にはならない。『殺す気はない』と言われているようだった。だが、それが余計に恐ろしかった。ただ、何かを罰するように、痛みを与えられている。
「――ぁぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!!!!!!!!!!!」
喉の奥から、自分のものとは思えない声が飛び出した。
続く灼熱。次々と襲う激痛。
本当に、脳が焼き切れる。呼吸が乱れる。視界が赤に染まる。
膝が崩れ、ルイは地に伏した。だが、それすら許されない。倒れ込んだことで、ナイフがさらに深々と肉を抉る。
息が詰まる。
肺が動かない。
四肢が思い通りにならない。
意識が落ちかけたその時、視界の端。男の足が映る。ゆっくりと、近づいてくる。
(……来るな、来るな来るな来るな)
頼むから、殺さないで。
ルイの消えかけた思考が、微かに祈る。当然、男はルイへ近付くのをやめない。
だが、予想だにしないことが起きた。
男はルイの目の前に来て――膝を折った。
金の輝きを宿したその手が静かに伸びて、ルイの頬に触れた。
――"熱い"のに、"冷たい"。
焼き尽くす熱を持ちながら、それ以上に冷たく、内側から死を冷やしていく手。
『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』
皮膚が焼ける。細胞が崩れる。
死ぬ。
もうダメだ。俺は、ここで死ぬ。
何もできなかった。ミコ様が言っていた。これが試練?
あまりにも、あっけなさすぎる。
何も抵抗できなかった。
何もできなかった。
これでよかったのか?
シアは守れたのか?
わからない。
痛い。
熱い。
怖い。
死ぬ。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
悔しい。
死にたくない。
まだ、やりたいことがいくつもある。
助けて。
まだ……まだ……まだ……!
――彼女のそばに。
『……怖いか?それは、私のことか……それとも、この空間か?』
耳元で、囁かれる。
『何、心配はいらない。この世界は友人に作ってもらった”狭間”。外に出れば、この空間で起きた全ての事象はなかったことになる』
(なかったことに、なる……?)
『私が大切な親友の子供のことを傷つけることはない』
男の指は、優しくルイの髪を撫でた。
『……大人しく、私の元へ来てくれるのであれば、なんだって我儘も聞いてあげよう。君は”可哀想”だからね』
甘く、優しく、そして恐ろしく。
『父親もいない。本来いるべき場所から連れ去られて。そんな、辛そうな表情までして……死んだナティの――"君の父親"の代わりに、私が、なんでも我儘を聞いてあげよう』
額に、柔らかい感触がした。
『……大人しく、そこで待っているんだよ。ルイ』
――そして、ルイの意識は途切れた。
◇◆◇
波の音。
妙に反響する。
冷たい岩の感触。
確かに触れられて。”ただの岩の冷たさ”が、指先に伝わってくる。
意識が浮遊するような感覚。
(……ここは、どこだ?)
薄く目を開けた。
柔らかな白い光。
光が、ある。
それだけで、息が詰まりそうになった。
あの空間にはなかったもの。おそらく、存在すらしなかったもの。
(……死んだのか?)
現実感がない。
身体はここにあるのに、心が追いつかない。
だが、次の瞬間、その不確かさは崩れ去った。
「……ルイ! 目が覚めたんだね、よかった……!!」
声がした。
シアの声。
ふわりと包み込むような、震えながらも安堵に満ちた響き。
焦点がまだ合わない。けれど、その光の中に"彼女"がいることだけはわかった。
(シア……)
その名前を思い浮かべたことに、ひどく違和感がある。
認識できる。
見える。
音が聞こえる。
――おかしい。
あの空間では、それすら許されなかった。
知覚が歪み、肉体が削がれ、音が消え、感触が奪われ――。
息が詰まる。喉が乾く。
手を持ち上げようとする。
まだ脳が覚醒しきっていないのか、身体が鉛のように重い。
だが、"感覚がある"。
岩の冷たさを。
指を動かすという意志を。
筋肉の収縮を。
確かに、感じる。
(……生きてる)
――なのに、”生きている感覚"が、信じられない。
視界の端に、あのとき拾った宝石が映る。
――星骸を倒した。
――その後、世界が反転した。
――焼かれて、溶かされて、感覚を奪われて。
……俺は。
死んだのではなかったか?
「…………っ!!!!」
ルイは目を見開き、ガバッと体を起こす。
「ルイ!?」
全身から汗が噴き出る。
心臓が、爆発しそうなほど早く脈打っている。
息が荒くなって。頭がクラクラする。
(……殺されそうになった。異能者か? わからない。でも、生きている。夢だったのか……?)
(いや、そんなはずがない、だって、あの熱も痛みも、ハッキリと覚えてる。なのに……)
(体の感覚もあって、シアも目の前にいて、俺は、戻ってきている。生きてる)
「――ル、ルイ……っ! ちょっとっ、苦しい……!」
シアの声が、すぐ近くで響いた。
ルイはハッとした。
――無意識に、彼女を抱き締めていた。
何の意図もない。
考える前に、そうしていた。ただ、"確かめたかった"。
この世界が、本当に"ある"のか。この温もりが、本当に"存在する"のか。
彼女が、本当に生きているのか。
……そして、自分が、本当に生きているのか。
「――っ……!」
無意識の行動とはいえ、あまりにも唐突すぎた。ルイは慌てて後ずさった。
シアは戸惑い、恥ずかしそうに頬を染めていた。
それを見て、口の中が急激に乾いていく。
「ルイが見当たらなくて、珠桜さんと律灯さんに相談したの。そしたら、律灯さんがここでルイが倒れているって教えてくれて……急いで助けにきたの。どこも怪我してなさそうでよかったよ」
シアは笑う。
穏やかに。
優しく。
……何も知らずに。
それが、今のルイには、あまりにも。
「……げ、ろ」
声が、掠れる。
シアが、怪訝そうに眉をひそめる。
「え? なに?」
自分が、どれほど酷い表情をしているかわからない。
……いや、"わからない"のではない。"考えられない"。心配をかけないよう、繕うこともできなかった。
「俺と、いる……と……危ない、から……っ」
言葉を発しながら、胸の奥が冷えた。
焼かれ。
貫かれ。
変質し。
――最後に、慈しまれた。
優しく撫でられたあの手の感触が、まだ消えない。
焼き尽くすほど熱かったのに、氷のように冷たかった。
感覚があって、感覚がない。
現実があるのに、現実がない。
「早く……シアだけでも、逃げて……」
シアが、目を見開く。
「……………………お願いだ。頼むよ……シア…………」
ルイの脳裏には、"あの声"が焼き付いて離れなかった。
『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』
ルイは、自分の肩を抱き、ただただ、恐怖に震えていた。




