第二十八話 拒絶の残響
外との隔絶が進むにつれ、ルイは次第に自分の意識がぼんやりと溶け出していることに気がついた。視界の周縁からぼやけた灰色の靄が忍び寄り、世界の輪郭を緩やかに奪っていく。ファロンの顔さえ、少しずつ焦点を失い、あの鋭い赤い瞳の輝きだけが、闇の中に浮かぶ不気味な灯りのように感じられた。
(熱さのせいか? それとも……)
頭が一度、大きくぐらりと揺れた。まるで船底に立てられたかのような、根底から揺さぶられる浮遊感。膝が突然力を失い、崩れ落ちそうになる。
しかし、ファロンの手が、ルイの腕をしっかりと捉えていた。倒れかかる体を、優しく、しかし確固たる力で支えるその手は、まるで落下を防ぐためではなく、この暗黒の檻の中から逃げ出させないためにあるかのようだった。
「ふふ……もう、大丈夫だ。君を蝕んでいた偽りの繋がりは、もう消えた。"君の家"に帰ろう」
ファロンの声が、歪んだ水を通して聞こえるように、遠く、そして重く響く。
ルイの視界の下部で、地面を覆った闇が微かに蠢いている。そこから微細な金色の糸が、植物の蔓のように伸びてきて、ルイの足首に、そっと絡みつこうとしていた。触れる感触は、冷たさと、ほんのりとした生温かさが不可思議に混ざり合い、皮膚の下にじんわりと滲み込んでくるようだった。それは痛みではなく、むしろ感覚そのものを麻痺させ、取り去っていくような──意識をさらに深い霧の中へと誘うような感覚。
(響哉、シア……)
唇を動かそうとするが、声は出ない。脳裏をよぎるのは、今しがたまで共にあった二人の姿。閉じていく暗黒の壁の向こうで、彼らがどうなっているのか、想像するだけで胸が締め付けられる。しかし、その焦りさえも、靄のように薄れていく自意識に掻き消されていった。
ファロンがルイの顎を優しく持ち上げ、その瞳をまっすぐ見つめる。ぼんやりと滲んだ視界に、彼の赤い瞳の光が浮かび上がる。その光が、まっすぐに、深くルイの瞳の奥へと流れ込み、思考の最後の抵抗を優しく洗い流していく。
「怖がらなくていい。私は君の味方だよ」
その言葉と共に、ルイの意識は最後の一点の明かりが静かに消えるように、深く、底なしの静寂へと沈んでいった。膝の力が完全に抜け、体全体がファロンに預けられる。外の世界の一切合切──悲鳴も、熱気も、オーロラの光さえもが、金色と暗黒に塗り替えられたこの小さな宇宙の外側へと追いやられ──
そして、そこで彼は夢を見た。
その光景は、まるで古びたフィルムのように、色褪せて、しかし微かに温かみを帯びていた。
日差しの柔らかな書斎。埃が舞う陽の筋の中、二人の男が向き合っている。
一人は、輪郭や目の形に、どこかルイに通じるものを感じさせる男性。緑色の髪と、同色かそれより少し明るい瞳。背は高くなく、細身で繊細、しかしその佇まいには揺るぎない決意の芯が通っていた。
もう一人──窓からの光を背に受け、金髪が天使の輪のように輝くその人物は、間違いなくファロン。だが、その表情は今の鋭く冷徹な険しさとは異なり、もっと若々しく、人間らしさを宿していたが、その瞳の奥には切実で、やがて歪みゆく願いの芽が潜んでいた。
「ナティ、今日も家族のことかい」
ファロンの声は、今よりも幾分か軽やかで柔らかい。友人を気遣うような調子。しかし、どこか抑えきれない焦りの色がにじんでいた。
その言葉を聞き、ナティと呼ばれた緑髪の男は、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。眉をひそめ、唇を歪め、まるで不味い薬を飲まされたような、心底うんざりした顔つきだ。
「"今日も"とはなんだ?」
冷たい、氷の刃のように鋭い突き放し方。それは単なる拒絶ではなく、何度も何度も繰り返されるこのやり取りへの強い倦怠と、沸騰する手前の静かな怒りを含んでいた。
「俺は生涯を家族に尽くすと決めている……何度来たって、君の願いは聞かないよ」
彼はファロンではなく、窓の外の穏やかな庭──いつも、妻と子供が遊んでいるその場所を眺めながら、ため息を織り交ぜて言い放った。その態度には、もう話すこともない、これ以上近づかないでほしいという決意が、鎧のように硬く張りつめている。
だが、ファロンが引くことはなかった。
「君は、世界を救う力がある。それなのに、どうしてその力を使わない」
ファロンは一歩前に踏み出し、机の縁に手を置く。指の節が白くなるほど力がこもり、古びた木が微かに軋んだ。その音が、張りつめた空気を切り裂く。
「この世界は壊れてしまった。人間の愚かさのせいで、歪み、蝕まれている。もう、あの豊かな日々を暮らせる時代には戻れない……」
机の上には、配給された質素な食糧が置かれている。ファロンが、男のためにとわずかばかりの気遣いから持ってきたものだ。軍人であったファロンに与えられた分は、一般市民である男よりも、ほんの少しばかり多かった。その差が、二人の間にある決定的な隔たり──世界を見る眼差しの違いを、無言のうちに浮き彫りにしていた。
「でも、君と私なら、それを正し、永遠の平和をもたらせる。失われた全てを取り戻して、壊れる前に戻して──」
「そんな大層なことは俺には無理だ」
男は、食い気味にファロンの言葉を遮った。哀れみにも似た、しかしそれ以上に冷たい諦観を瞳に湛え、ファロンをじっと見据える。その視線は、友人の熱狂を、静かに、しかし確実に沈めていく氷の水のようだった。
「"イージス・コンコード"にも、あの鬱陶しい変異体にも、して……君にも、手は貸さない」
彼は言葉を続け、一つ一つの音に、家族を守る者の揺るがない決意の重みを込めた。
「もし仮に、俺が君と手を組むとしよう。だが、世界を救うまでの過程で、きっと多くの人間が犠牲になる。恨みを買うことだってあるだろう。世界を救うのは、そんな綺麗で、賞賛ばかりな仕事じゃない。君が夢想しているような、光り輝く使命なんかじゃないんだ」
男は目を伏せながら、胸に手を当てた。
「守りたい妻がいて、愛する子供がいる。この家で、彼らとただ穏やかに過ごせれば、それで満足だ。これ以上、俺は何も望まない」
「世界を救おうなんてしない。これ以上の混沌を、血を、悲しみを引き起こしてたまるか」
「世界なんてこのまま滅んでしまえばいい。このまま終わりを迎えられるのなら、少なくとも、世界が終わる最期の瞬間を家族とともに過ごせる」
「異能の力も、使わない」
「こんな力、最初からない方がよかった。今では──お前との出会いすらも、なければ、と思う」
「待ってくれナティ……いや、"ナサニエル"」
ファロンが息を呑む。その表情は、理解できないというよりも、理解したがゆえの絶望にゆがんでいく。
だが、そんなファロンの様子も、男──ナサニエルはもう気にも留めない。彼はファロンをまっすぐ見つめ、最後の言葉を、もはや友情の名残りさえも断ち切るように叩きつけた。
「家族がいるだけで、俺の人生は十分だ。だから、帰ってくれ、親友」
その呼び名は、もはや親愛の情など微塵もなく、ただ過去の甘美な残響を引きずった、痛烈で冷徹な皮肉に響いた。
その様子を──扉のほんの少しだけ押し開けた隙間から、幼いルイは息を潜めて見ていた。
背の高さに合わせた、低い視界。大人たちの足元、机の脚、そして張り詰めた空気が流れ込むその隙間から、二人の男の険しい表情と、父親の背中に滲む深い失望が見えていた。
「……お母さん」
勝手に、口が動く。おそらく、夢の中だからだろう。現実なのか記憶なのか、境界が曖昧だ。胸のあたりがざわざわと騒ぎ、理由のない不安でいっぱいになる。ルイは振り返り、何かを求めるように後ろの暗がりを見ようとする。
その時、ぎゅう、と後ろから強く、しかし優しく抱きしめられた。柔らかな布地の感触と、ふわふわとした素朴な石鹸の匂い。視界に銀色の髪が映り込む。母親の体温が背中から伝わってきて、一瞬、冷えた心臓がほんのり温められるような安心感があった。
しかし、その安らぎもつかの間。抱きしめられた拍子に、少し体勢がずれたのだろう。ギシ、と古い床板が軋む、小さくも鋭い音が響いた。
その音に、書斎の二人が一瞬で反応する。
ナサニエルとファロン、両者の視線が一斉に扉の隙間へと向けられる。逆光で、彼らの表情の細部はよく見えなかった。
ナサニエルが早足で近づいてくる影。扉が押し開けられる。
「──"ルイ"。母さんと、向こうで静かに待っているようにと言っただろう?」
彼はルイを軽々と抱き上げ、小さな体を自分の胸にしっかりと寄せた。
父親の上着の感触と、少しほこりっぽい匂い。ただ、すっと馴染んで、緊張した心を溶かしてくれて──
「エレオノール。話は終わった。俺はファロンを送っていくから、ルイをよろしく頼むよ」
家の奥の方へ、抱かれたまま連れていかれる。
ファロンがこちらをじっと見つめている様子がチラリと映ったのを最後に、視界は再び深く静かな闇へと、ゆっくりと染まっていった。




