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第二十七話 縋る指尖は - 2

 無数の光る細き糸が、シアの手首から肘へと蛇のように巻き付いた。


 ──ジュッ。


 肉が焼け、布が焦げる音。そして、甘くむせるような異様な臭い。シア自身も、ルイも、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 理解を拒む、現実以外の何かであった。


「……ぁ、あ、あああああぁぁぁあああああああッ!?!?」


 遅れて訪れた激痛に、シアの絶叫が虚空を切り裂く。魔法の制御が一瞬で乱れ、彼女の体が浮遊のバランスを失い、ぐらりと傾いた。

 響哉が咄嗟に彼女の体を引き寄せようとするが、彼自身の周囲にも金色の波が迫っている。首元にまとわりつこうとする冷たい糸から必死に身をかわし、息を継ぐので精一杯だ。


「シア……シアッ!!」


 ルイが叫ぶ。


(まずシアの腕を……! この糸を消さないと!)


 ルイの思考が焦る。これは明らかに異能の所産だ。ならば、自分が操作できれば、消せるかもしれない──

 ルイが異能へと意識を集中させようとしたその刹那、背後から手が伸びて、ルイの伸ばしかけた手を掴んだ。


「……!?」


 それは金色の女神の手ではない。確かな骨格と、布の感触。ほんのりとした体温を感じるが、焼け爛れるような熱はない。黒を基調とした上質な服の袖口、そして革のグローブに覆われた、紛れもない人間の手だった。



「──なぜ、屋敷の外にいる」


 声が、氷のように滑り込む。


「──」


 ルイの息が、完全に止まった。

 鼓動までもが凍りつくほどに、聞き覚えのある、その低く響く声。

 直接聞くのは初めてだ。しかし──


『ようやく見つけた』

『我が友の息子よ。可愛いルイ』


 記憶の奥底に刷り込まれたあの囁きと、今の声の主が完全に同一であると、直感が断定した。


 首が、錆びた歯車を無理矢理回すように、不自然に動く。肉体の全てが恐怖で硬直し、抵抗している。

 ゆっくりと、そして確かに視界に入ってきたのは──


 柔らかく波打つ金髪。珠桜とは系統の異なる、彫りの深い、端正でありながら冷徹そのものの美貌。だが今、そこに刻まれているのは険しい、怒りに限りなく近い表情だった。彼の背はルイより二十センチは高く、その威圧感は、ルイの瞳孔の中で恐怖によってさらに膨張し、歪んで映る。

 前髪の隙間から覗く一対の双眸は、鮮やかな赤に染まり、強く輝いていた。異能が発動している者特有の、非情な煌めきを宿して。


 これが、自分を追い続けていた、ファロンという男なのか。


「もてなしが気に入らなかったか? お前も私と同じで、あの女が押し付けていった従者たちは邪魔だと思ったのか。ふふ、きっと、ナティもそう言うだろう」


 ゆっくりと、しかし抗いがたい力で、ファロンはルイの手を下ろさせていく。ルイが僅かに力を込めて抵抗すると、ファロンのこめかみが微かにピクリと動いた。だが、構わず続ける。


「……それとも、調度品が気に入らなかったか? そういうところもナティとそっくりだ。彼も、華美なデザインを嫌う。より煌びやかで賑やかな方が……この胸の虚しさも、多少は埋まるというのに」


 もう片方の手が動く。最初は頭頂を撫でるように触れ、それが次第に所有を確かめるような圧へと変わりながら、ゆっくりと下がってくる。指先が髪の毛を掠め、額の皮膚に触れる。その接触は優しさを装いながら、底に潜む支配欲を滲ませ、ルイの皮膚を逆なでする。


「なぜ、君もナティも、それが分からないんだ」


 その時、ファロンの指が、ルイの目元を覆うゴーグルのバンドに引っかかった。動きがぴたりと止まる。彼は一瞬、深く考え込むように微かに首を傾げた。

 その意図を図ろうとする間もなく、ファロンはおもむろにルイのゴーグルを外し始めた。優しく、ほとんど愛撫のように、頭から浮かせて取り外す。目元が突然晒され、熱気と異能の圧が直接眼球に触れ、ルイは思わず顔をしかめた。


「これは?」

「……かえ、せ……それは……大切なもの、だから……」


 魔法が使えないのにも関わらず、外に出て、澄幽を守りたいというルイへ、珠桜がくれた贈り物。単なる道具以上の、絆の証。


「ナティのものではないな……ミオウか?」


 答えてやる理由などない。ルイはただ、唇を堅く結び、沈黙のままファロンを睨みつけた。瞳に宿る拒絶の光は、言葉以上に鮮明だった。だが——その無言の反抗こそが、ファロンを深く刺激するには十分すぎた。


「そうか……そんなにもミオウから与えられたものが大切か。そのように教え込まれたというのか……可哀想に」


 彼の声には、憐憫と、どこか歪んだ失望が混ざっていた。まるで、愛する者が間違った道に迷い込んだことを嘆くように。



「──《Altération(アルテラシオン)》」



 ファロンの赤く輝く瞳が、鋭く深く光る。その瞬間、彼の手に握られたゴーグルが、形を保ったまま、冷たく無機質な金色へと変質していった。革もガラスも、根元から存在の理を書き換えられる、静かで根源的な侵食。それは破壊ではなく、「別のもの」へ置き換える、静謐な暴力そのものだった。

 ──しかし、それだけでは終わらない。


「一度、君を正気に戻してあげないといけない」

「……は?」


 ルイの漏れた声は、ファロンの不可解な宣言への困惑か。

 それとも、彼の眼前で、蝋が溶けるように形を失い、小さく縮んでいくゴーグルから滴り落ちた「何か」が、地面に触れると同時に、黒く粘稠な影へと変わり、地を這い始める光景への恐怖か。


 その影はたちまちファロンとルイの足元を覆い、円を描くように急速に広がり、立ち上がった。外界——必死に手を伸ばす響哉や、苦悶に喘ぐシア、そして不気味に輝く金色の女神さえも——から二人を完全に隔絶する、透明度の低い暗黒の壁を形成していく。壁の内側では光さえも歪み、すべての音が濁って聞こえる。


 外の世界の音も、熱気も、絶叫も、全てが急速に遠のき、鈍くなる。

 この闇と金色が織りなす殻の中で、残されるのはファロンの静かな息遣いと、ルイ自身の狂ったように早鐘を打つ鼓動だけだった。

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