表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/97

第二十七話 縋る指尖は - 1

 響哉は扉に近づき、取っ手に手をかけた。


「……重いな」


 響哉は右腕が暴槌の代償のせいで機能していない。傷ついた右腕を無意識にかばうようにしながら、彼は左手で冷たい金属を握る。「手伝う」とルイが小さく呟き、肩を寄せた。

 二人は体当たりするような形で、全身を使って扉を押し開けた。ギィ、と重い音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。軋む音が玄関ホールに反響し、重厚な扉がゆっくり、抵抗を解いていく。


 その隙間から──光が流れ込んだ。外の光。オーロラの光。青白い、幻のような輝きが、床を這い、三人の顔を淡く照らす。ルイはその光に目を細め、睫毛の先が微かな虹色に染まった。


 十秒近くかけて、扉はついに全開となった。


 そこには、美しい庭園が広がっていた——いや、美しいという言葉では、この光景を正確には言い表せない。

 色とりどりの花々が咲き誇っている。深紅の薔薇は一滴の露もなく、艶やかに硬質に光る。蒼白い百合は茎一本曲がることなく、厳格に直立し、淡い紫陽花はまるでガラス細工のように、一つ一つの小花が完璧な配列を保っていた。

 葉はすべて均一な緑、土には一片の落ち葉もない。澄幽の庭園と同じように美しい——しかし、決定的に違うものがあった。

 この庭園には、温かさが存在しない。生命の息吹が、感じられない。花々は確かに咲いているが、それは生きているというより、"そこに置かれている"という印象だった。まるで造花のように、あるいは時が止まった標本のように。風に揺れることもなく、ただ静謐に、冷ややかに、そこに在り続けている。


 響哉と共に、ルイとシアは玄関ホールの外へ足を踏み出した。ほんの少し高い場所にあるらしく、目の前には冷たい石の階段が、庭園へと続いていた。


「……外には誰もいないのか?」


 響哉の呟きが、不自然な静寂を破る。体の軸を低く取り、視線だけを鋭く動かして庭園全体を掃いた。薔薇の茂みの陰、彫刻のように剪定された生け垣の背後、遠くに見える大理石のベンチの周囲──人の気配はない。あるのは、ただ秩序だった植物たちだけだ。

 警戒を解かず、彼らはゆっくりと歩き始めた。背後で、重い扉がゆっくりと閉じる音がした。振り返る者はいない。



 階段を一歩ずつ降りる。足音だけが、この過剰な静けさの中に響く。庭園の"美しさ"が、次第に重苦しい圧迫感へと変わる。完璧すぎる秩序は、不気味さの裏返しだった。薔薇の棘は銀の針のようだし、百合の雄しべは塵一つなく、それはむしろ生命の揺らぎを否定する、冷たい造形物に見えてきた。


「……あまりに静かだ」


 ルイも囁くように言った。彼の目は、完璧すぎる花々の一つ一つに留まり、そこに潜むかもしれない「ずれ」を探している。


「虫の声も、風の音も……何も聞こえない。普通の庭じゃない」

「生け花みたいだね。生きてるって感じがしない。すごくきれいだけど……なんか、ゾッとする」


 シアが、低く、しかしはっきりと言い、身を震わせた。寒いわけではない。準氷河期ともいえる外界だが、なぜかこの場所は過ごしやすいような温度に保たれていた。

 響哉の視線は、庭園の先にある門へと向けられていた。直線距離ではそう遠くない。しかし、この不自然な空間を抜けることが、果たして容易だろうか。


「……早く……早く、逃げよう」


 ルイは胸の内を、思わず声にした。自分でその声に驚き、ハッとする。響哉に咎められるかと、ほとんど無意識に彼の方を向いた。しかし、彼もまた深く険しい表情で、ゆっくりと頷いていた。


「その方がいい。ファロンがこの屋敷にいないというなら、ここへ来る前に早く逃げるべきだ。琴葉が俺たちの場所さえ掴めれば、転移魔法で澄幽まで運んでくれる」


 彼の言葉が終わるか終わらないかの──



 その瞬間、周囲から突如、熱風が吹いた。


「ッ──!?」


 息が灼ける。喉の奥が一瞬で乾き、肺に吸い込まれた空気そのものが炎に変わったかのような激痛。ルイは反射的に腕で顔を覆い、一歩、二歩と後退した。

 背中が誰かの背中にぶつかる。響哉か、それともシアか。三人は無意識のうちに三角形を成し、互いに背を預け合うように固まった。


 ──キィィッ。


 金属が軋む、不気味に澄んだ音。門が開いたのか? しかし音の方向も距離も定かではない。鼓動が耳朶を打ち、その音さえも熱風に掻き消されそうだった。

 耐えかねて顔を庇った腕を下ろす。睫毛の先が、熱気で僅かに焦げる匂いがした。


 そして、視界がそれを捉えたとき、ルイは凍りついた。


 金色の糸で編まれた女神。

 全身が──髪の一筋から、流れるような衣の襞に至るまで、すべてが微細な金の糸で織りなされていた。一本一本が自律した生命体のように蠢き、絡み合い、無機質な輝きを放っている。あの時、狭間で独り襲われた際に見た、まさにその姿が、今、眼前に立ちはだかっていた。


 そして、第二の灼熱が襲う。


「……熱っ!?」


 女神を中心に、熱波が渦を巻く。半径数メートルの地面が、見る見るうちに変容し始めた。敷き詰められた石レンガが、金色の膜に覆われ、その下で溶けていくかのように形を失う。隣でシアが、熱さというより──侵食される痛みに、鋭く声を上げた。


「──ッ、上だ!!」


 響哉の裂けるような叫びと同時に、彼の足元から青白い魔力が迸った。シアもそれに呼応するように指先を翻す。二人の身体が、重力に逆らうようにふわりと浮き上がる。

 その直後、金色の波が彼らがいた場所を飲み込んだ。レンガも、完璧に整えられた植物も、金色の触手に触れた瞬間、色と質感を奪われ、無機質な黄金像へと変質していく。それは液体のように流れ、固体のように這い、庭園の秩序を貪りながら迫ってくる。


「ルイ!!」


 シアの絶叫が頭上から降り注ぐ。ルイは顔を上げる。

 魔法を持たないルイを見下ろし、響哉とシアの顔が歪んでいた。二人は必死に手を伸ばしている。指先が届きそうで、届かない。


 金の波が、足元に到達する。

 熱い。

 靴底から、灼熱が這い上がる。金属が溶けるような、肉が焼けるような。


 次の瞬間、足が地面に縫い付けられた。金色の波が靴を飲み、革が硬化し、足首を鈍く締め上げる。さらにふくらはぎへ、膝へと、冷たい黄金が肉体を覆っていく。


「──あ……」


 声にならない声が、喉から漏れた。

 あの地獄が、また。

 狭間で味わった、魂の縁までを焼き尽くされるあの絶望が、神経を逆撫でるように蘇る。金色はただの色ではない。それは苦痛そのもの、無に帰す前の最後の感覚なのだ。


「ルイーーッ!!」


 シアの声が、もう一度、より切実に響く。


 指が触れる。

 かすかに、しかし確かに。シアの指先が、ルイのそれに触れた。縋るように、二人の指が必死に絡まろうとする。


 今一度、腕を伸ばす──



 その瞬間を、黄金の糸が嗤うように邪魔した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ