第二十六話 暗青の案内人と揺らめく亡霊 - 3
四階の廊下を後にして、一行は再び階段を降り始めた。
階段を降りる。
廊下を歩く。
また階段を降りる。
窓の外には、相変わらずオーロラが輝いている。緑、青、紫――流れるような光が、廊下を幻想的に染めている。その美しさが、今は不気味にすら感じられた。
ルイは、エゼキエルの背中を見つめながら歩いていた。
この男は、一体何者なのか。
ファロンやミレディーナと、どういう関係なのか。
そして――なぜ、自分たちを助けているのか。
答えは、まだ見えない。
廊下は長かった。曲がり角を何度も曲がり、いくつもの扉を通り過ぎる。その度に、ルイたちは警戒を強めた。いつ、何が飛び出してくるかわからない。だが、何も起きなかった。静寂だけが、廊下を支配していた。
時折、窓の外を見ると、空の色が変わっているのがわかった。オーロラの光が、少しずつ弱くなっているような気がする。それとも、気のせいだろうか。
ルイは、シアを見た。シアも同じように、警戒しながら歩いている。杖剣を握る手が、少し震えていた。
響哉は、最後尾で周囲を警戒している。その目は、一瞬たりとも油断していない。
エゼキエルは、時折後ろを振り返った。その度に、またシアのペースを確認しているようだった。そして、また前を向いて歩き続ける。
どのくらい歩いただろうか。
時間の感覚が、曖昧になっていた。この館に入ってから、ずっとそうだ。まるで、時間が歪んでいるかのように。
やがて、階段が見えた。
三階から二階へ。
二階から一階へ。
降りる度に、装飾が豪華になっていくのがわかった。壁には金の額縁に入った絵画が並び、天井には繊細な装飾が施されている。床の絨毯も、より高価なものになっていく。そして――
一階に辿り着いた。そこには広大な空間が広がっていた。
玄関ホール。天井は高く、三階分はあるだろう。巨大なシャンデリアが下がっているが、明かりは灯っていない。その影が、床に落ちている。まるで、巨大な蜘蛛のような。床は大理石で、一歩踏み出すたびに足音が反響する。その音が、まるで誰かの足音のように聞こえて、ルイは思わず周囲を見回した。だが、もちろん誰もいない。
壁には、大きな肖像画が掛けられている。誰の肖像画なのかはわからないが、豪華な服を着た人物が描かれていた。その瞳が、まるでルイたちを見ているかのように感じられた。
そして、正面には――大きな扉があった。両開きの、重厚な木製の扉。高さは三メートルはある。表面には複雑な彫刻が施されていて、取っ手は黒い鉄製だ。
外への出口だ。ようやく、ここから出られる。
ルイは、その扉を見つめた。長い、長い時間だった。この館に入ってから、どれだけの時間が経ったのだろう。
メイドたちとの戦い。そして――この謎の男、エゼキエルとの出会い。
全てが、まるで夢のようだった。だが、現実だ。
ルイの体には、まだ鈍いだるさが残っている。響哉の腕も、完全には治っていない。シアも、疲労の色が濃い。
ルイは、深く息を吸った。
もう少しだ。あの扉を開けば、外に出られる。
「……着きました」
男が立ち止まった。
ルイと響哉は、すぐには近づかなかった。響哉の手は剣の柄にかかったまま、ルイのダガーも握られたままだ。シアも杖剣を構えている。
この男が、最後まで本当に敵意がないのか。まだ確信が持てない。ここまで案内してくれたのは事実だ。だが、それが罠である可能性もある。油断させておいて、最後に仕留める――そういう作戦かもしれない。
ルイの目は、男から一瞬たりとも離れなかった。その動き、呼吸、視線――全てを観察している。響哉も同じだった。剣で切り込む準備は、常に整っている。
「俺は……一緒に来た人を迎えにいかないといけないので……ここで、失礼します」
「……そうか」
響哉が短く答えた。警戒を緩めない目で、男を見つめている。
シアが一歩前に出た。杖剣は手放さないが、彼女は深々と頭を下げた。
「……案内してくれて、ありがとうございました」
シアの声は、僅かに震えていた。緊張と、それでも礼を言わなければという思いが、入り混じっている。
エゼキエルは少しだけ表情を緩めた。それは、微笑みと呼べるほどのものではなかったが、それでも僅かな温かみがあった。口角が、ほんの少しだけ上がった。
「……いえ」
その声には、安堵のようなものがあった。まるで、無事に役目を果たせたことにほっとしているような。
そういえば、この男がなぜ持っているであろう能力に反してこんな気弱な性格なのかは、最後まで分からずじまいだった。また、彼の名前もまだ聞けていない。
「そういえば、あなたのお名前は……? 思い出せましたか?」
シアの問いかけに、男は少し考え込むように首を傾けた。
「うーん……」
その仕草は、どこか子供っぽかった。本当に思い出せないのか、それとも――
そして――男は、ゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から、赤みがかった瞳がルイたちを見つめる。その瞳には、それまでとは違う、何か深い――まるで、遠い深淵を覗き込むような、底知れない色があった。まるで、そこには無数の死者が眠っているかのような。
ルイの背筋に、冷たいものが走った。シアがごくりと固唾を飲み込む。
「"エゼキエル"です」
その声は、静かだった。だが、確かに――それまでの消え入りそうな声とは違う、芯のある響きがあった。玄関ホール全体に、その名前が響き渡るかのように。
「エゼキエル・ファルナスティア」
名前が、空間に刻まれた。
シャンデリアが、僅かに揺れた。風もないのに。まるで、その名前に反応するかのように。
すると、三人の半透明の少年たちが、嬉しそうに男の周囲を回った。
「王様! エゼさま!」
「王様の名前!」
「覚えたよ!」
少年たちの笑い声が、玄関ホールに木霊する。
エゼキエルは、少しだけ――本当に少しだけ、口元を緩めた。
「俺……"親友"以外、友達が欲しいと思ったことはないんですが……」
声が、先ほどまでよりも高く、上擦るようだった。
「"ルイ君"と"シアさん"は……またお話したいなと思いました」
ルイとシアは、その言葉に僅かに目を見開いた。
名前は、教えていないはずだ。一度も、口にしていない。それなのに、この男は知っている。
「歳が近い人が……いなくて……」
エゼキエルは、そう言って視線を逸らした。まるで、恥ずかしいことを言ってしまったかのように。
響哉の目には僅かな――本当に僅かな――困惑の色が浮かんでいた。この男は、敵なのか。味方なのか。わからない。だがその言葉には、嘘がないように思えた。
最後まで、どこまでも不気味だった。
ファロンやミレディーナ、屋敷の構造を知っているだけでなく、ルイやシアのことも知っていた。
屋敷中に満ちている彼の星溶粒子。
そして――あの部屋から聞こえた、声。
全てが、謎のままだった。
ルイは、エゼキエルを見つめた。
彼と、また会うことになるのだろうか。その予感が、胸の奥にあった。
「外では……」
エゼキエルが、ルイの方を見た。
「変なところには近付かないようにするのと……それから……」
エゼキエルは一度言葉を切った。そして、それまでの消え入りそうな声とは違う――はっきりとした、明確な意志を込めた口調で言った。
「ファロン様には……ちゃんと、気を付けたほうがいいですよ」
「……どういう、意味だ?」
ルイの声が、低く響いた。警戒と、僅かな恐怖が混ざっている。
「俺……ルイ君と友達になれたらいいなと思うので……死んでほしくないんです。だから……気を付けてくださいね」
エゼキエルは、それ以上は語らなかった。ただ、その目には警告の色があった。心配しているような、何かを伝えようとしているような――そんな複雑な色。何か伝えたいが、うまく言語化できない。そんなようにも思える。
「……わかった」
ルイが答えると、エゼキエルは小さく頷いた。その表情には、僅かな安堵が浮かんでいた。
「……それでは……失礼します。いつか……また、会えるといいですね」
エゼキエルは踵を返し、ホールの奥へと歩いていった。三人の半透明の少年たちも、楽しそうに笑いながら、その後をついていく。
「バイバイ!」
「またね!」
「また会おうね!」
子供たちの無邪気な声が、静寂に満ちた館に反響する。
エゼキエルの姿は、すぐに暗闇に溶けて見えなくなった。足音も、気配も、何も残らなかった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
玄関ホールに、静寂が戻った。
ルイは、大きな扉を見つめた。響哉とシアも、同じように扉を見ている。重厚な木製の扉が、外界との境界線のように立ちはだかっている。
ようやく、ここから出られる。これから、どうにかして澄幽に戻らなければいけない。別の狭間に飲み込まれていった珠桜と律灯も、無事だろうか。
――ああ、違う。自然と珠桜のことを心配するように考えてしまったが。彼は、自分の父を殺したかもしれないのだ。その問題とも、また向き合わなくてはいけない。
胸の奥に、言いようのない不安が残っていた。
エゼキエルの、最後の警告。
『ファロン様には……ちゃんと、気を付けたほうがいいですよ』
その言葉の意味を、ルイだけでなく。シアと響哉も含め、まだ誰も理解していなかった。




