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第二十六話 暗青の案内人と揺らめく亡霊 - 2

 彼の案内は、驚くほどスムーズだった。

 一度も迷わない。まるで屋敷の構造をすべて頭に入れているかのようだった。


「……今は屋敷の三階にいるので……まずは四階に向かいます」


 男は猫背のまま、ゆっくりと歩き始めた。

 ルイたちはその後についていった。シアが先頭で、男のすぐ後ろを歩く。ルイがその後ろ、響哉が最後尾だ。ルイが狙われている対象なので、響哉とシアでルイを挟むような陣形になっている。

 歩くペースはゆっくりだった。最初、ルイはなぜこんなに遅いのかと思った。だが、よく見れば男はたびたび後ろを振り返り、シアの様子を確認している。シアのペースに合わせているのだ。どうやら、気遣いができる人物のようだ。ここ一時間程度、こちらの気も一切知らずに責め立て、怒鳴り、殺そうとしてくる恐ろしいメイドたちの相手しかしていなかったため、ルイとシアはほっと一息吐いた。

 三人の半透明の少年たちは、相変わらず男の周囲を浮遊している。時折、楽しそうに笑い声を上げながら、宙をくるくると回っている。まるで、遠足に来た子供のような無邪気さだった。


「……どうして屋敷を出るのに上の階に行く必要があるんだ」


 響哉が問いかけた。その声には、警戒心が滲んでいる。


「ここから大階段へ行く間の扉の鍵が……閉まっているんです……なので、申し訳ないんですが……遠回りします」


 男は廊下の途中で左に曲がった。ルイたちもそれに従う。

 曲がった先には、また別の廊下が続いていた。窓から差し込む薄明かりが、装飾として置かれている壺を照らしている。


「ここを真っ直ぐ進むと階段があります……誰も使わないですから……安心してください」



 階段を降りながら、ルイは尋ねた。


「……ファロンはいないのか?」


 男は階段を上り続けた。ただ、僅かに首を傾けた。


「いらっしゃらないです。今日は……別の場所にいます」

「別の場所?」

「……詳しくは知りません。ただ……ここにはいないです」


 ――この男はファロンの居場所さえも知っているのか。やはり、只者ではなさそうだ。


 男は四階の床に足を踏み入れた。ルイたちもそれに続く。

 突然、階段が明るくなったような気がした。いや――気のせいではない。確かに、光の質が変わっている。それまでの薄暗い廊下とは明らかに違う、柔らかく、しかし鮮やかな光が差し込んでいる。


 そこは、三階とは明らかに雰囲気が違っていた。廊下の両脇には、大きな窓が並んでいる。そして、その窓の外には――


「……っ」


 シアが息を呑んだ。


 空が、燃えるように美しかった。

 オーロラが、空一面に広がっている。緑、青、紫、赤――無数の色が混ざり合い、波打つように流れている。その光は、まるで生きているかのように蠢き、形を変えていく。

 以前、海岸で見た光景と似ていた。


 だが今回は雲が取り払われていた。空は、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。


「…………あ」


 ルイもその光景を見て、息を呑んだ。


 その向こうの、宇宙が見えた。

 無数の星々が瞬き、天の川が白く流れている。本来なら分厚い雲に覆われているはずの空が、今は透き通るように澄んでいた。


 澄幽で見る空よりも、距離が近い。まるで、手を伸ばせば星に触れられるような――そんな錯覚すら覚えるほどに。

 そして、深い。どこまでも、どこまでも続いているかのように。


 その空は、とても鮮明で、美しかった。


「……まあ、偽物ですが」


 男は窓の外を見ながら微笑んだ。その表情には、どこか誇らしげなものがあった。


「ここはミレディーナ様の領域なんです……すべて……ミレディーナ様が管理しているんですよ」

「管理……ミレディーナが?」

「そうです……」


 この男は、一体どういう立場なのだろう。使用人なのか、それとも――。


「空が、ミレディーナ様の気分によって変化するんです……だから、それを見て使用人の数を変えて……って、こんな話、どうでもいいですよね……ごめんなさい」


 男は少し申し訳なさそうに、声を小さくした。


 疑問に思った。ミレディーナはもう死んでいるというのに、なぜ彼女の異能が発動しているのか。

 ルイとシアは、「最後の状態が継続されているのだろう」と一瞬予想した。だが――違う。思い出せば、先ほどまで空には分厚い雲が広がっており、そこから差し込む薄い陽光が、屋敷の廊下を照らしていただけだった。先ほどまで、あんなオーロラは存在しなかった。


 つまり――この空は、今、この瞬間に生まれたものだ。ミレディーナが死んだ、今。


 嫌な予感がした。窓辺で空を見上げて微笑む男から、目が離せなくなる。

 ルイの背筋に、冷たいものが走った。


「俺も……"用事はほとんど済んだので"……早く帰りたいです。進みましょうか……」



 四階の廊下を歩いていると、不意に空気が変わった。

 それまでの澱んだ、埃っぽい匂いとは違う。清らかな、花のような――いや、もっと上品な何かが漂ってくる。香水だろうか。それとも石鹸の香りだろうか。


「ここ、いい匂いがする」


 シアが立ち止まり、鼻をひくつかせながら呟いた。その視線の先には、他の扉とは明らかに違う、白く塗られた優雅な扉がある。取っ手は真鍮製で、薔薇の意匠が施されていた。

 ルイも足を止めた。響哉も無言で立ち止まる。

 その扉が、半開きになっていた。


『…………様』

『……んなに……いで……』

『……すが…………!』


 微かに、話し声が聞こえてくる。女性の声のようだった。複数人――全て、聞いたことのある声だった。

 それが、慌てたような、切羽詰まったような――そんな響きで、聞こえてくる。


 シアが息を呑みつつ、杖剣を構えながらその扉に近付いた。ルイも身構える。


 だが、そのとき。


 シアの視界に影がかかった。


 パタン。


 静かに、その扉が閉じられた。


「……!」


 扉と自身でシアを挟むような距離で、男がシアの後ろに立って、腕を伸ばして扉を閉めていた。


「……ここは、違います」


 男の声は、相変わらず抑揚がなかった。だが、その言葉には、明確な拒絶が込められていた。


「……ごめんなさい」


 シアが小さく謝る。


「いえ……いいんです……開けたままにしておく使用人が悪いんですから……」


 一行は再び廊下を歩き始めた。

 先程までの清らかな香りは消え、また澱んだ空気に戻った。まるでさっきの部屋だけが、時間から切り離されていたかのようだった。

 廊下には、窓からオーロラの光が差し込んでいる。緑、青、紫――流れるような光が、壁や床を幻想的に染めている。だが、その美しさが、今は不気味にすら感じられた。


 ルイの手が、無意識にダガーの柄を強く握っている。シアの呼吸も、少し荒くなっていた。


 さっきの部屋。あの話し声。使用人たちの声だった――それは間違いない。

 だが、一つだけ違った。また別の場所で聞いた声が、確かに混ざっていた。


 あの、高貴で、冷たく、そして――もう二度と聞くことはないはずだった、声。


 ルイとシアの脳裏に、ある可能性が浮かんだ。だが、それを口にすることはできなかった。口にすれば、現実になってしまうような気がした。喉が引き攣り、言葉が出てこない。


 オーロラの光が、廊下を静かに照らし続けている。緑の光が壁を這い、紫の帯が床を舐めるように流れていく。その光は柔らかく揺らめき、まるで生きているかのように蠢いている。

 美しい。あまりにも美しすぎる。この光景を、誰かが喜んでいるような――そんな錯覚すら覚えた。まるで、誰かの機嫌がいいから、空がこんなにも綺麗なのだと。そう思わせるような、生々しい感覚。


 ルイの背筋を、冷たい汗が伝った。

 シアの杖剣を握る手が、小刻みに震えている。


 その光は、どこまでも美しく――それが、苦しかった。息ができないほどに、美しかった。


 前を歩く男は、相変わらず何も言わない。ただ黙々と、音もなく廊下を進んでいく。

 三人の半透明の少年たちは、楽しそうに笑いながら、男の周囲を浮遊している。


 その笑い声だけが、静寂の中に響いていた。

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