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第二十五話 承服できない理と引き換えに - 3

 ルイがシアを見る視線に『認識』が、ただの視覚的な認識ではなく、魂の深いところでの『理解』が確かに戻っていた。

 しかし同時に、その認識がもたらす重い現実も、すべて一緒に戻ってきた。彼女が泣いている理由も、自分が何を忘れていたのかも、そしてこの状況がどれほど残酷なものだったのかも──すべてが一度に押し寄せてきた。


「シア……」


 その名前を呼ぶ声には、戻ってきた愛おしさと、その愛おしさを一度失っていたことへの深い衝撃が混ざり合っていた。二つの感情が胸の奥で激しく衝突し、言葉にならない痛みとなって彼を苛んでいる。

 シアはおずおずと顔を上げ、涙で滲んだ視界でルイを見つめた。その瞳が、確かに自分を捉えている。もう「見知らぬ誰か」ではない。確かに「シア」として──大切な人として、彼女を見ている。

 しかし、その瞳は安堵ではなく、苦渋に満ちていた。


「……ごめん、シア……俺……」


 ルイの声が震える。謝罪の言葉が喉の奥で詰まり、うまく形にならない。


 記憶を取り戻した今ならわかる──あの時、何が起きたのかを。


 ルイはナターシャに対して異能の削除を試みた。敵の能力を無効化し、戦闘を終わらせるために。だが、その次の瞬間、激しい頭痛と共に意識を失い、廊下に倒れ込んでいた。

 幸いなことにすぐに意識を取り戻したものの、目を覚ました時には頭がひどくぼんやりとしていた。ここはどこなのか、今、自分は何をしているのか──そんな根本的な疑問が脳内を支配し、現実との接続が曖昧になっていた。まるで深い霧の中に迷い込んだかのように、すべてが茫漠として見えていた。


 異能削除のコマンド──その代償として、ルイの記憶が一時的に失われていたのだ。

 能力を行使するたびに支払わなければならない対価。それは肉体的な疲労でも、魔力の消耗でもなく──自分自身の記憶という、最も大切なものの一部だった。


 忘れてしまったこと。彼女を傷つけてしまったこと。思い出すのに時間がかかってしまったこと──何を謝ればいいのかわからない。すべてが自分の責任であり、すべてが取り返しのつかないことのように思えた。


(……この力は、一旦使わないようにしよう)


 心の奥で、静かな決意が固まる。どれほど強力な能力であっても、シア──大切な人を傷つける可能性があるなら、使いたくない。

 彼女の涙を見るくらいなら、脅威となる存在に対して、躊躇わずにとどめをさすほうが──


「思い出して……くれたの?」


 シアの問いかけは、期待と恐れが入り混じった、か細い声だった。


「ああ……全部、思い出した……だから、余計に……ごめん……」


 その言葉には、深い自己嫌悪が込められていた。思い出したからこそ理解できる──自分がどれほど残酷なことをしてしまったのかを。彼女がどれほどの絶望を味わったのかを。そして、その絶望を与えたのが他ならぬ自分だったということを。


「いいの……思い出してくれさえしたら……それで……よかったぁぁ……」


 シアは、嗚咽をルイの胸に押し殺す。彼の上衣が涙で濡れていく感触も、彼女の震えが少しずつ収まっていくのも──暗い罪悪感となって、ルイを襲った。



「……ハァ、久々に少し焦ったぜ。シアちゃんのこと忘れてるルイ君なんて、見たくねえし」


 響哉の声が、わざとらしく軽い調子でルイへ投げかけられる。

 ──その途端に、ルイの動きが止まった。



『……あなたの父は……殺されたんですよ。あの男に……』

『黒華、珠桜に』



 思い出したもの、消えていた記憶はシアに関するものだけではない。意識を失う前、ナターシャから聞いた言葉──呪詛のような囁きが、脳裏を鋭く掠める。


 意識しないように、考えないようにしたかった。だが、考えずにはいられない。

 目の前にいる響哉は、珠桜に最も近しい存在だ──何かを知っている可能性は、十分にあり得る。それどころか、彼が何かを企んでいる可能性さえ──


(まさか……まさか、そんなことが……)


 ルイの脳裏に、珠桜の穏やかな笑顔が浮かんだ。澄幽に来てからずっと、育ての親のように慕ってきた人。自分を育て、守ってくれた恩人。


 その人が──自分の実の父親を殺したのか?


 世界が、足元から崩れ落ちていくような感覚。これまで信じてきたすべてが、砂上の楼閣だったとでもいうのか。


『君は……君の家族の記憶を取り戻したのか』


 空間の狭間に引き込まれ、珠桜と引き剥がされる直前に、彼に切迫した様子で詰め寄られたことを思い出した。あの時の珠桜の表情──それは単なる心配ではなく、もっと深い、暗い何かを隠していたのではないか。


 本当に、そういうことなのか?



 シアは、抱擁するルイの身体の急激な変化にハッとし、涙で曇った視界で顔を上げた。ルイは石像のように硬直している。その緊張した背中を、響哉がじっと見つめていた。かつてキュルケーたちを追い詰めた時と同じ、冷徹で研ぎ澄まされた視線で。


「……様子がおかしいけど、何をそんな緊張してるんだ?」


 響哉の声は低く、危険な含みを帯びている。


「……いや、特には」


 ルイの返答は明らかに硬く、嘘を吐く者特有の詰まり方だった。声に込められた緊張が、空気を重くしている。

 沈黙が流れる。重苦しく、針で刺すような緊張感に満ちた静寂。その中で、ルイは意を決したように口を開いた。


「……な、なあ。響哉」

「ん?」


 どこか警戒を含んだ、短い返事。ルイの呼吸が詰まった。喉の奥で言葉が引っかかり、出すのに勇気を要する。


「珠桜さんは……俺の父さんのこと……知ってるのかな」


 その問いが空気を震わせた瞬間、響哉の表情がわずかに変化した。ほんの一瞬──だが確実に、何かを隠すような影が瞳を掠めた。まるで地雷を踏まれたかのような、微細な動揺。


「……さあ」


 あまりにも曖昧な返答。それは肯定でも否定でもなく、ただ煙に巻くような言葉だった。


「そこのメイドから何か聞いたのか?」


 ルイの肩が、ぴくりと不自然に震えた。シアだけが状況を理解できず、ただ不安げに二人を見つめるしかない。重苦しい空気が三人を包み、まるで嵐の前の静寂のような緊張感が漂っていた。


「何も……聞いてない」


 ルイの声は震えていた。明らかに嘘をついている──それを響哉も、シアも察知していた。


「そうか」


 響哉はそう返すだけだった。その声には、ルイの嘘を見抜いているという確信と、それでも今は追求しないという判断が込められていた。何が言いたいのか、何を聞きたかったのか──響哉の真意は深い霧に包まれたまま、ルイには掴めなかった。

 だが、その瞬間の響哉の表情に、ルイは確信に近いものを感じていた。響哉は知っている。父親について、珠桜について──そして、ナターシャが告げた恐ろしい真実について。みんな知っていて、自分だけが知らされていなかった。


(俺は……俺は今まで……)


 胸の奥で、何かが崩壊していく音がした。

 四年間、澄幽で過ごしてきた日々。珠桜への深い敬愛。律灯と響哉への揺るぎない信頼。

 それらすべてが──嘘だったとでもいうのか?


(父さんを殺した相手を……俺は慕っていたのか?)


 その考えが脳裏を支配した瞬間、ルイの世界が音もなく瓦解した。これまで信じてきたすべて、守ろうとしてきたすべて──それらが一体何だったのか、もうわからない。


(今まで俺がやってきたことは……何だったんだ?)


 澄幽のために戦い、仲間のために血を流し、敵を殺してきた。すべては珠桜への恩に報いるため、澄幽を守るためだった。珠桜を父親のように慕い、その期待に応えようと必死に努力してきた。


 だが、もしその珠桜が──自分の実の父親の命を奪った張本人だとしたら。


(俺は……俺は一体……何をしてきたんだ?)


 自分という存在の根幹が、ぐらりと揺らいだ。アイデンティティの核となる部分が、音もなく砕け散っていく。これまでの人生そのものが、巨大な欺瞞だったとでもいうのか。

 復讐すべき相手を慕い、感謝し、その人のために命を賭けてきた──そんな自分は、一体何者なのか。



 ──その時。



 ──コツ。コツ。



 それは鈍く、重く、まるで棺桶の蓋を叩くような不吉なリズムで近づいてくる。廊下の奥、闇が特に濃く淀んだ場所に、一つのはっきりとしない人影が立っていた。

 ルイの手が無意識にシアを守るように前に出る。だが、その動作は機械的で、魂がそこにない。響哉もゆっくりと戦闘態勢に入る。


 足音は次第に明瞭になり、その主の輪郭も徐々に浮かび上がってくる。三人の緊張が一気に高まり、空気が戦場のそれへと変貌していく。


「お喋りは一旦中断だ。……続きはまた後で」

「ああ……後で、必ず聞かせてもらう」


 ルイの声には、逃がさないという強い意志が込められていた。だが、それは同時に──自分の世界が完全に崩壊するかもしれないという恐怖とも表裏一体だった。


 父親の死に関する真実。響哉が何を隠しているのか。珠桜は本当に父を殺したのか。


 知らなくてはいけない。たとえその答えが、自分という存在を根底から覆すものであったとしても。たとえそれが、これまで築き上げてきた人生のすべてを無意味にするものであったとしても。


(もう……後戻りはできない)


 これまで信じてきたすべてを疑わなければならない。愛してきた人たちを疑わなければならない。そして──自分自身の存在意義をも。

 もしかしたら、自分は間違った人生を歩んできたのかもしれない。もしかしたら、本当なら憎むべき相手を愛してしまったのかもしれない。


 そんなルイの絶望的な決意を察したのか、響哉の表情に一瞬、深い憂いが差した。まるで取り返しのつかない運命の歯車が回り始めたことを悟ったかのような──重い責任と深い後悔を背負った者だけが見せる、痛みに満ちた表情だった。

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