第二十五話 承服できない理と引き換えに - 2
「あの女の子」――。
その一言で、シアの心臓は完全に停止した。
血液が凍りつき、呼吸が止まり、時間そのものが静寂に沈む。耳鳴りが響く中で、ただその言葉だけが残響のように脳裏に木霊していた。
「保護対象」――それは、澄幽に匿われる者たちの呼称だ。だが、違う。ルイとシアは共に調査部隊として、澄幽の外で血と絶望に塗れた戦場を駆け抜けて、二人で生き抜いてきたのに。
「……え」
まず、絶句した。
理解が追いつかない。なぜ、こんなことに?
「ルイ……?」
振り返り、立ち上がろうとする。だが、力が入らない。
(……あっ)
カクンと膝の力が抜けて、上半身が前のめりに倒れた。冷たい石の床が視界に迫る――
だが次の瞬間、両肩を支える手があった。
指ぬきグローブの少しごわついた感触。布越しに伝わる手のひらの温もり、そして肩に直接触れる指先の体温。それは、残酷なほどに慣れ親しんだ――愛おしいほどに覚えているものだった。
何度も、何度も感じてきた感触。戦場で怪我をした時、疲れ果てて倒れそうになった時――いつも、この手が支えてくれた。
「大丈夫か?」
ルイの声が、上から降ってくる。相変わらず首を傾げ、困惑している。不慣れな様子で、どう声をかけるべきか戸惑っているように見える。
――髪がふわりと揺れたその瞬間に、彼のいつもの匂いに混じって、血の匂いがした。
そうだ。彼も戦っていたのだ。怪我をしているのかもしれない。頭を強く打ったのかもしれない。ナターシャやメディアと戦う中で、記憶を操作する異能を受けてしまったのかもしれない。それで――
でも、シアの記憶だけ? 響哉のことは覚えている様子だった。澄幽のことも。本当に、シアのことだけをすっかり忘れてしまったのか?
「……け、怪我は……ない?」
掠れた声で問いかける。怪我の心配など、もはや形だけの言葉だった。ただ、何か言葉を発していないと、このまま現実が崩れ落ちてしまいそうで。
「俺か? 俺はないけ……ど……!?」
ルイの声が震えた。シアの頬を伝う涙に気づいたのだろう。彼は慌てて彼女の体を見つめ、ハッと息を呑む。
「……膝、擦りむいてる」
ルイはそう言いながらウエストポーチをまさぐった。先ほど、膝をついた時に擦ってしまったのか、シアの膝の頭がじんわりと赤くなっていた。
――知っている。あの中に治療用のテープと消毒液を入れていることを。いつも同じ場所に、同じように入れていることを。
治療道具の場所は覚えているのに、シアのことは覚えていない。
――ああ。
シアの世界が、崩れ落ちた。
足元から地面が抜け落ち、胸の奥で何かが砕け散る音がした。心臓を握り潰されるような痛みが全身を駆け抜け、視界が霞んでいく。
膝の震えが止まらない。立つことさえ困難になり、ルイに体重を預けてしまう。一瞬驚いた彼は、優しく――まるで見知らぬ怪我人を介抱するように――ゆっくりと姿勢を低くし、シアを床に座らせた。
目の前にいるのは、間違いなくルイなのに。
いつものライムグリーンの瞳。いつもの深緑の髪。いつもの、少し心配そうな表情。声も、仕草も、匂いも――すべてがいつものルイなのに。
なのに。
「……なんで……なんで、覚えてないの……!?」
その叫びは、もはや絶望そのものだった。廊下に響く声は、かつてシアが見せたことのない――魂の奥底から絞り出された、純粋な悲痛の響きだった。
「ルイ君……」
響哉の声が、初めて震えた。いつもの軽い調子は影を潜めていた。
「俺のことはわかるか?」
「当たり前だろ、響哉。変なこと聞くなよ」
ルイは当然のように答える。その声には迷いがない。響哉のことは確かに覚えている――調査部隊の先輩であり、澄幽でミレディーナの戦いの後自分を励ましてくれたこと。だが――
「その子のこと、本当に知らないのか?」
響哉がシアを指さす。
しかし、ルイは迷いなく首を振った。その動作は残酷なほどに自然で、一片の躊躇も含んでいなかった。
「知らない。今初めて見た。それより、この子と、あとそこの倒れてる人のこと、早く診療所に連れていこう。葛城先生にも珠桜さんにも怒られるぞ」
その言葉が、シアの心に最後の一撃を与えた。
ルイは彼女を「この子」と呼んだ。名前のない、顔のない、ただの「誰か」として。二年間共に過ごした「シア」という存在は、彼の中からもう完全に消し去られている。あの温かな日々も、共に流した涙も、分け合った笑顔も――すべてが虚無に飲み込まれてしまった。
「あ……ああ……」
シアの声は、か細い呟きのようだった。自分の存在そのものが否定される恐怖に、言葉を紡ぐ力さえ失われていく。喉の奥で何かが詰まり、呼吸すら困難になった。
(やだ……やだよ……)
心の中で、絶望的な祈りが繰り返される。
(忘れないで……お願い……)
目からは、とめどなく涙が溢れ続ける。
シアの元を離れ、ナターシャへ近付こうとするルイの肩を、響哉は掴んで静止させた。その手に込められた力は、普段の響哉からは想像もつかないほど強く、切実だった。
「待て。そこの倒れてるヤツなんてどうでもいい」
「どうでもいいって――」
「"シア"。覚えてない?」
名前――響哉が口にした、その一語が空気を震わせた。
その音が耳に届いた瞬間、ルイの動きが止まる。一瞬、何かが脳裏をかすめたようだった。霧の向こうから聞こえてくる、遠い記憶の残響のように。
「……シア?」
ルイがゆっくりと振り返り、シアを見つめる。その瞳には、確かな困惑の色が浮かんでいた。
――知らないはずの名前が、なぜか耳の奥にこびりつき、心の襞に引っかかっている。
「シア……シア……」
彼は繰り返す。まるで呪文のように、あるいは失われた言葉を取り戻そうとするように。唇が形作るその音に、次第に微かな実感が宿り始める。記憶の深淵から、何かが浮上しようとしていた。
その変化を感じ取ったシアは、無意識にルイの手を掴んだ。触れた指先から全身に伝わる震えを、彼女はもはや抑えることができなかった。震えはやがて全身を支配し、止むことがない。必死にルイの手を自らの額に押し当てながら、彼女はその震えに身を委ねた。
「ルイ……」
それは、すがるような、切実な呼びかけだった。声は魂の奥底から絞り出され、この世のすべての願いを込めたような響きを持っていた。
「お願い……思い出して……」
声は涙に咽び、かすれていく。
「私のことを……忘れないで……」
アメジストの瞳から、熱い涙が溢れた。もはや抑制も、体裁も必要なかった。ただ純粋な想いだけが、涙となって頬を伝っていく。
「忘れられるなんて……嫌だよ……」
シアの涙が、ルイの手の甲を伝った。その一滴の熱が皮膚を焼き、血管を辿り、神経を駆け抜けて、彼の意識の最も深いところに届いた瞬間――
ルイの眉が、苦しそうにひきつった。
頭蓋の内側で、封印されていた何かが蠢き始める。霧の向こうに散らばっていた無数の記憶の欠片が、互いを求めて寄り集まり、ざらついた音を立てて結びつこうとする。白い髪、アメジストの瞳、鈴のような笑い声、温かな手の感触――それらが断片的に閃き、そして痛みを伴いながら一つに融合していく。
「シア……?」
彼はハッと息を呑み、改めてシアを見つめた。
その視線は――さっきまでの無機質なそれとは明らかに異なっていた。




