第二十五話 承服できない理と引き換えに - 1
響哉が暴槌の代償による傷の応急処置を終え、「よし」と小さく呟きながら立ち上がった。
不思議なことに、処置中にまだ倒していないメイド長のキュルケーと掃除係のエウクレイアが襲ってくる気配はなかった。部屋の中にもおらず、かといって部屋の外に出ていったルイと戦闘になっている様子もない。
唯一、非戦闘員でありつつも治療のためか、部屋の外にナターシャが待機していたが、そちらはルイが上手く片付けたようだ。
逃げたのか。それとも、シアと響哉を殺すことよりも優先すべき用事ができたのか。
――どちらでもいい。後で戦うことにはなるだろうが、暴槌の代償が少しでも回復してから戦えるなら好都合だった。
シアにも手伝ってもらい、右腕の位置を完全に固定した。まだ鈍い痛みは残っているものの、耐えられないほどではない。笑って誤魔化せる程度にはなった。あとは、いい感じに治るのを待つだけだ。
雑なのはいつものことなので、気にしない。今回は小言を言う琴葉もおらず、気が楽だった。
「――んで。ルイ君は? 部屋から出ていったっきり帰ってこないけど」
響哉とシアは一瞬視線を交わす。
ハッとしたような表情で、シアが固まる。そうだ、ルイが出ていった頃はまだシアは戦闘中だった。気付いていなかったのだろう。
「……えぇぇぇぇえええええええっっ!?!?」
ほら、やっぱり。
「なんで一人で行動させてるんですかーーっ!?!? ルイが狙われてるんですよね!?」
「落ち着けシアちゃん。また使用人共が寄ってくるぞ」
「ハッ」
慌てて口を塞ぐシア。どうせ口を塞いでも、大きな声を出さずとも、使用人たちは行動を起こそうとしたらここへ来るというのに。まったく、健気なものだ。
内心で一通り笑ったあと、響哉は上方にある扉を指さした。
「あの扉から出ていったっきり戻ってない。行くぞ」
端的な指示。そして、響哉は自分だけ魔法を使って浮遊した。
――魔法を使い、こちらの世界へ風を顕現させる、最もスタンダードな浮遊方法だ。上向きに気流を生み出し、それに乗る。
シアはどのようにするのか。少し興味を持ちながら下を見たところ――
「……むむむむ……ぐぬぬぬぬぬ…………」
「なんでそんな険しい顔してんだよ」
両手を横に広げ、足は不格好に内股にし、変な姿勢でバランスを取ろうとしつつ浮遊するシアがいた。
「う、浮くって考えると……ただ浮くだけになっちゃって、バランスが……きゃあっ!?」
最後の悲鳴は、努力もむなしく、シアが上下逆さまにひっくり返ったためのものだ。
「ううっ……響哉さーん、助けてくださーいっ!」
「あーあー、なにやってんだか……」
必死にスカートを抑えながら上半身を振って体勢を戻そうとするシアだが、それが上手くいくはずもなく、逆にくるくると回転してしまう。
響哉は呆れたように溜息を吐いたあと、シアの側にも風を発生させて、自分の方へ寄せた。小さな体が、響哉の左肩にしっかりと担がれる。
どれほど滅茶苦茶な能力を持っていても使い方がなってなければ意味がないということが、改めて立証された瞬間だった。
◇◆◇
「ルイ!!」
「ルイくーん?」
扉から部屋の外に出た瞬間、エウクレイアの異能の領域から脱出したことにより重力の向きが正常に戻った。そのままでは床と水平に飛んでいってしまうところを、響哉は瞬時に魔法の行使を止めて、軽やかに着地した。その流れで、シアを床に下ろしてやった。
すぐそこに、廊下に座り込んだままの深緑の髪の後ろ姿と、近くに倒れるベージュの髪のメイドの姿があった。
どちらも肩が上下していることから、生きていることに間違いはない。ルイは無事だった。
「ルイ……よかっ……た……」
シアが安堵の息をつこうとしたその時、彼女の言葉が喉の奥で止まった。完成されるはずだった安堵の言葉は、かすれた息となって虚空に消える。
――ルイが、一向に振り返ろうとしない。まるで石像のように微動だにしない。
シアの呼びかけに、彼の肩も震えず、首も回らなかった。深緑の髪は静かに垂れたまま、まるで時間が止まったかのように。その背中は、これまで何度もシアを守ってくれた懐かしい輪郭を持ちながら、今は冷たい彫刻のように感じられる。
「……ルイ?」
シアが再び声をかけた。
明らかにルイの様子がおかしい。声を掛けたら、何かの反応はあるはずだ。それが、何一つない。
シアは不安そうに息を呑み、慎重にルイに近づいた。床に膝をつき、目線を合わせようとしながら、そっと彼の肩を叩く。
――とん、とん。
――……ピクリ。
ようやく反応があった。やはり生きている。だが、むしろそれが不気味だった。
ルイはゆっくりと振り向きながら、顔を上げる。だが、その動作はまるで重い水の中にいるかのように緩慢で、どこか現実感に欠けていた。
「…………」
ルイは、一言も発しない。
「ルイ……? どうしたの? 私の声、聞こえてる?」
シアが不思議そうに問いかける。その声には心配と酷い困惑が滲んでいた。
「中のほうはみんな、響哉さんと倒したよ。早く、ここから出る方法を探しに行こう?」
その時、ルイと視線が合った。ライムグリーンの瞳が、今確実に自分を見ている。しかし――そこには"いつもの温もり"も、"認識の光"もない。まるで未知の物体を見つめるような、虚ろで冷たい眼差しだった。
嫌な予感がして、シアの喉がヒュッと鳴る。喉が締め付けられるような感覚。冷汗が背筋を伝い――そして、ルイは小首を傾げ、決定的な一言を口にした。
「……君は……誰?」
――その言葉は、鋭い刃のようにシアの胸を貫いた。
ルイは純粋な困惑を浮かべ、眉をひそめながら首をかしげている。それは演技でも冗談でもない――彼の瞳には、真実の迷いが揺れていた。記憶の暗闇の中で手探りするように、必死に何かを探しているのだが、何も見つけられないもどかしさに満ちていた。
「え……?」
シアの唇がわずかに震える。これは悪戯だろうか?だとしたら、酷すぎる冗談だ。後でしっかり叱らなければ。そう自分に言い聞かせるが、胸に広がる冷たい不安は消えない。
ルイは不思議そうに周囲を見回し、響哉の姿を見つけると、「あ」と小さく安堵の息を吐いた。それは、暗闇の中でようやく見知ったものを見つけたような、かすかな希望の声だった。
「響哉」
ルイがゆっくりと立ち上がる。そして、"何の躊躇いもなくシアの横を通り過ぎ、響哉のもとへ歩き出した"。
一瞬、シアの手が無意識に伸びる。ルイの袖を掴みたかった。でも、指先は空気を掴むだけだった。彼の背中は、もう彼女に向けられていない。
(ルイ……?)
シアの心に、氷のような寒さが広がった。ルイに、無視された?いや、そんなはずがない。あの優しいルイが、そんなことするわけがない。
疑問と戸惑いが脳を支配する。だが真相を問おうにも、もうルイは響哉の元にいる。
「おう。何。大丈夫?」
響哉の声にはっきりと警戒心がにじむ。彼もまた、ルイの異常に気づいている。
「大丈夫って、どう見たって大丈夫じゃないだろ」
「え?」
ルイに外傷はない。それなのに、いったい何が『大丈夫じゃない』というのか。響哉の困惑に対し、ルイはきょとんとした表情で首を傾げ、むしろ訝しむように言い放った。
「そこ。人が倒れてるんだぞ、早く葛城先生を呼ばないと。っていうか、ここどこだ? 澄幽にこんな屋敷あったっけ」
――人?
――澄幽?
ルイの発言がまるで現実と乖離していた。自分たちが敵地にいることを忘れ、倒れたナターシャを単なる負傷者と認識している。自分たちは空間の狭間に引き込まれ、この屋敷へ転送されたのに。倒れているその女は、ルイを利用するためにかどわかそうとし、シアと響哉を殺そうとする敵であるのに。
響哉とシアは言葉を失った。
だが、認識の齟齬なんてものと比べものにならないくらいに――
困惑する響哉をよそに、ルイはさらに近づき、シアを一瞥しながら控えめな声で尋ねた。まるで機密事項を確認するような、慎重な口調で。
「……あと、あの女の子は? 保護対象か?」




