第二十四話 灰燼に燃ゆる愛憎 - 1
ルイはある扉に視線を向けていた。エウクレイアが最初に空間を捩じっていたとき、他の贄骸たちが一度退避したために開いている扉だ。一人で部屋の外に出るのは危険かとも思ったが、あの治療担当のメイドだけでも早く始末しておきたかった。彼女の異能があれば、どれだけ倒しても無意味になってしまう。
垂れ幕のようになっていたシーツに捕まり、勢いよく体を振る。壁際まで寄ることができたので、あとは家具を伝って降りるだけだ。幸い、星骸と戦うために身の使い方の訓練は重ねてきた。動かず、向こうから攻撃してくることもないものに飛び移っていくくらい造作もない。
「よっ……!」
扉まで到達し、部屋の外へ踏み出す──そして、盛大にバランスを崩した
エウクレイアの空間操作の異能の範囲から抜けたため、重力の方向が再び変化したのだ。ルイは咄嗟に受け身を取るが、床に肩を打ち、痛みが腕を駆け上がった。
「いっ……!」
呻き声が漏れる。肩から背中にかけて、衝撃の余韻が痺れのように残っていた。
「あ……」
痛みに悶えている頭上で、かすかな息遣いが聞こえた。
ルイが視線を上げると──そこにベージュの髪をしたメイド、ナターシャが立ち尽くしていた。響哉の魔法で塵と化したフィリアを蘇らせた異能者だ。
彼女の瞳には、深い動揺と、やりきれない悲しみが満ちていた。涙が目尻に光り、長い睫毛が微かに震える。
「なぜ……また、こんなことに……」
思わず、ナターシャは細く震える指で口元を覆い、うつむいてしまった。肩がわずかに揺れ、堪えきれぬ感情がその仕草から伝わってくる。
「フィリアとメディアを……」
掠れた声が、廊下の静寂に落ちる。
「なぜ、あなた方はいつも、私たちから大切なものを奪うのですか?」
その問いには、怒りよりも──深い、深い悲しみが込められていた。失われ続けてきた者だけが持つ、絶望に近い諦念が。
──ナターシャは、ミレディーナの治療係として仕えてきた。
彼女の異能『帰還』は、触れたものを過去の状態に戻す力。ミレディーナが些細な傷を負った時も、ご主人様に贈り物を拒否されて泣き崩れる彼女を慰める時も、ナターシャは常に傍らにいた。その手は、癒しのためにだけ使われてきた。
しかし、この優しい異能も、戦いの場では恐ろしい武器となり得る。触れた者を「存在する前」の状態に戻せばいいのだから。数度、この異能を使い命を奪ったこともある。ただ──
『ルイにお前の異能は通用しない』
『ルイは触れた者の異能を支配する。お前の異能のコントロールも奪われるだろう』
ご主人様の警告が脳裏をよぎる。
なんという理不尽な能力か。しかし、この世界の"異能"という力に、もはや道理などない。どんなに危険な異能でも、どれだけの犠牲を出そうとも、誰にも止められはしないのだ。
大切な同僚を殺された。ずっと仕えてきたミレディーナも殺された。それでも、復讐はできない。
今の主が、禁じているのもある。だが、それ以前に、ナターシャでは彼の振りかざす力に勝てない。
「――ミレディーナ様」
ナターシャが、掠れた声でその名前を呼んだ。ほんの少し前に、ルイ達が殺した一人の異能者の名前。世界を滅ぼさんとした、災厄の権化とも言えるような、史上最悪の異能者。
──ファロン、ミレディーナ、そしてメイドの彼女たち。
その間の関係を深く考えたいとは思わなかった。だが今、ナターシャの瞳に宿る深い悲しみを見て、ルイは理解する。彼女たちにとって、ミレディーナは単なる主ではなかった。家族のような、かけがえのない存在だったのだと。
「ミレディーナ様は……ただ愛しただけなのに」
ナターシャの声には、深い無念がにじむ。その目には、この世界の終わりを見つめてきた者だけが持つ、深遠な絶望が映っていた。
「あなた方はそれを『罪』と断罪した。愛することが、なぜ罪となり得るのですか?」
ナターシャの問いに、ルイはなんと答えればいいかわからなかった。
愛なんて大層なものを考えられるほど、ルイの見ている世界は満ち足りたものではなかった気がする。生き延びること、仲間を守ること、次の日を迎えること──それだけで精一杯だった。愛を語る余裕など、この終末の世界にあるのだろうか。
「……愛がなんだか、俺にはよくわからない」
ルイの声は静かだった。正直な告白。飾らない、偽らない言葉。
「けど、愛のために世界が滅びていいものか」
そこには揺るぎない信念があった。どれほど純粋な想いであっても、その結果が他者をも巻き込む破滅であるなら──それは認められない。
「……」
ナターシャの唇が激しく震える。彼女の背後には、崩壊しつつある世界の記憶が広がっているようだった。灰色に染まった空、死の匂いに満ちた大地、そして──希望を失った人々の絶望の表情。朽ち果てた建物、枯れ果てた大地、二度と戻らない青空。
「……わかっています」
搾り出すような声。
「わかっているんです……でも!」
その声は次第に力を増し、怒りと悲しみが交錯する。
「この星に、未来はありません!」
突然の叫び声が虚空を切り裂く。廊下の壁が、その声に震えたようだった。ナターシャの全身が震え、涙が頬を伝い落ちる。
「愛情という空虚に縋るくらいしか、この星でやることは残っていません……!」
ナターシャの目に涙が光る。それは悲しみだけではない──怒り、絶望、そして諦念が混じり合った、複雑な感情の結晶だった。一粒一粒が、失われた未来の重みを帯びている。
「働いてお金を稼ぐこと。後世に技術を伝えること。子孫を残すこと。それらすべてが、もう、この星では無駄なことです!」
言葉を区切るたび、ナターシャの声が震える。
絶叫に近い訴え。それは、元の平和な世界の姿も記憶していながら、この終末世界を生きているすべての者が抱える、言葉にできない虚無への叫びだった。
「この星が滅びる瞬間……もしくは、自分自身の命が潰えるその瞬間まで、満足に生きるだけ……それくらいしか、やれることはありません」
ナターシャの拳が、白く握り締められている。
「私たちの願いは、ただ一つ──」
声が、わずかに優しさを帯びる。まるで、遠い日の温かな記憶を手繰り寄せるように。
「ミレディーナ様が幸せでありますように、それだけでした。あの方がまだ小さな少女だった頃から……ずっと、傍でお仕えしてまいりましたから」
ナターシャの表情が歪む。愛おしさと憎しみが入り混じった、複雑な感情がそこにあった。幼い頃の記憶が、走馬灯のように彼女の瞳を通り過ぎていく。
「……ミレディーナ様が幸せになられるのであれば、この星が滅びようとも、私たちは厭いません」
その告白は、狂気ではなかった。
ただ、絶望的なまでに深い──主への、献身的な愛の形だった。
「でも……貴方たちの掲げる理想の前に敗れ、ミレディーナ様は尊い命を落とされました」
ナターシャの声が再び震え出す。涙が止めどなく溢れ、嗚咽が胸を震わせる。
『私たちもご一緒させてください。当主様』
ほんの一週間前の出来事が、鮮明に蘇る。
キュルケーを中心に、使用人たちが総出でミレディーナを制止しようとした。せめて、供をさせてほしいと懇願した。
『駄目よ。アナタたちにはファロン様のことをお願いしているでしょう?』
ミレディーナは優しく微笑んだ。いつもの、穏やかな笑顔だった。
『ですがミレディーナ様といえど無謀です! ルイという青年は、"あの執行官"の庇護下にあるのでしょう!? それに東方には魔法士や、黎冥の死神も潜伏しております!』
『だからこそ、余計にアナタたちのことは連れていけないわ。アナタたちの命まで危険に晒したくないもの』
その言い様は、今思うと不自然だった。
自信家なミレディーナが、まるで負けることを悟っているかのような語り口だったこと。いつもなら「心配には及ばないわ」と笑い飛ばすはずなのに、その日の彼女は──どこか、諦めたような瞳をしていた。
聡い彼女は気付いていた。もしくは、ファロンにそのように言われたか。
『東で騒ぎを起こし、黎冥やミオウに繋がる人物を引きずり出せ。できなければ──』
できなければ、何だったのか。
もう、答えは出ている。
ミレディーナは、最初から──捨て駒だったのだ。ルイを捕らえられれば最高の結果。だが、それは必ず妨害される。ファロンはそれを見越していた。ならば、ミレディーナという囮を使って、澄幽の位置を特定し、戦力を分析し、次の一手のための布石を打つ。
すべては、ルイを安全に手に入れるための前準備。ミレディーナの想いも、願いも、命さえも、その計画の中では、些細な犠牲でしかなかった。
「あの方を、幸せにすることもできませんでした……」
ナターシャの声が、悲痛に震える。
「ミレディーナ様のことを、最期までファロン様は愛することはなかった」
愛を求め続けた少女は、最期まで愛されることなく、ただ利用され、使い捨てられ、死んでいった。
その事実が、ナターシャの心を引き裂いていた。守りたかった笑顔は、もう二度と見ることができない。
静寂が一瞬流れ、そして――
「……"ルイ・クレルヴォー"。すべては、あなたのせいで」




