第二十三話 守るために棄てる優しさの形 - 3
「休憩は終わりかしら?」
フィリアの声が冷静さを取り戻していた。だが、その眼光はより鋭く、より冷たく研ぎ澄まされている。針も、強度を増すためか何本も束ねられ、鉄線のような太さに変貌していた。
「そろそろ……終幕にいたしましょう」
響哉は苦痛に歪んだ表情をわずかに引き締め、シアを真っ直ぐに見つめる。
「異能の詳細までは、いろいろ使って試さないとわからん。が、一つだけ確信しているのは──お前ならあのピンク頭の糸を切れる」
響哉は苦しげな息の合間を縫って、言葉を続けた。その口元に、わずかに──ほとんど確認できないほどかすかに──優しさが浮かんだ。
「……シアちゃん」
彼は崩壊しつつある右腕を押さえながらも、姿勢を正した。まるで、師が弟子に伝統を継承するように。
「戦場で一番大事なのは、正しさじゃない。強さでもない。
『生き残ること』だ。それが、全てに優先する」
響哉の銀灰色の瞳が、深い経験の重みを帯びて輝く。
「外での返事の仕方を教えてやる。絶対に、『できる、できない』で考えるなよ。そんなものは、結果が全てだ。
全て、『やるか、やらないか』。やれたら、生き残る。あとは全部、死ぬ。ただそれだけだ」
シアは息を呑んだ。響哉の言葉の一つひとつが、胸の奥深くに染み込んでいく。これは単なる技術の伝授ではない──生き延びるための哲学そのものだった。冷徹なまでに研ぎ澄まされた、戦場の真理。
「で……やるの? ルイ君と、生きて帰るために。アイツの"糸を切る"こと」
――シアはまたしても衝撃を受けた。
なぜこの人はこれほどまでに、心を動かす言葉を選べるのか。「ルイと生きて帰るため」――「フィリアを殺せ」ではなく、あくまで『糸を断つ』という目的に焦点を当てる。シアが、誰かを傷つけることを躊躇っていることを見抜いて、そちらへ意識を向けないように話す。
だが、たとえ「フィリアを殺せ」と言われても、もう迷うつもりはなかった。
この人は、ルイを殺すかもしれない。
もしかしたら、主であるファロンにも挑むかもしれない。ただ、そこで勝てる保証はどこにもない。彼女も、愛した主人のように、ファロンが原因となり、命を落とす可能性がある。
――これは、自分が生き延びるための戦いでもあり、
「――やる……私、やります! 絶対!」
フィリアを、救う戦いだと。シアは自分に言い聞かせた。
その直後、シアは響哉の額ににじむ脂汗、無理を押して支えている膝の微かな震えに気づく。自分が迷っている間に、彼の身体は確実に限界に近づいている。血の匂いが濃くなり、呼吸が浅くなっていく。
響哉が苦しげに息を吐く。その瞬間、彼の右腕を固定したバンドがわずかに緩み、彼が痛みをこらえるように唇を噛むのをシアは見逃さなかった。
『持てる力全て使って、未来があるお前らを守って、守りきったら用済みの俺はテキトーに死ぬ。それで全部から解放されて終わりだ』
戦いの前、響哉が言っていた言葉を思い出した。あの時は、単なる自虐的な冗談だと思っていた。だが今は違う。この人は本当に、そうするつもりなのだと理解した。
「……私がちゃんと糸を切って、この状況を打開できれば、ルイも響哉さんも、生きて澄幽に帰れますよね」
シアの声に力が込もる。もう逃げない――ここで立ち向かわなければ、大切な人を失う。その恐怖が彼女を突き動かす。
「絶対に、三人で帰りますからね!! 響哉さんは休んでてください!」
「あっ、おい、シアちゃん!」
響哉が慌てて制止しようとするが、もはや遅かった。シアはすでに一歩前方へ踏み出している。その背中には、迷いの影は微塵もなかった。小さな少女の背中が、今この瞬間だけは誰よりも大きく見えた。
生きて帰る――そのためには、一刻も早く行動しなければ。響哉の体力には並外れたものがあるだろうが、同じ人間の体であることには違いない。早く治療をしなければ、命に関わるだろう。それに、メイドたちの"ご主人様"がいつこの場に現れ、直接ルイを連れ去るかもわからない。一刻でも早くこの状況を打破し、全員で帰還するのだ。
(どうやって断つ……どんな力なら切れる!?)
(早く、早く早く! 確実に、糸を断ち切る力を!)
頭の中で無数の魔法のイメージが駈け巡るが、確信の持てる答えは見つからない。
糸が迫ってきた。保険として防御魔法を展開しつつ、シアは氷を纏わせた杖剣を振るった。
だが、最初の一撃は糸を掠めるだけだった。切断ではなく、ただ表面を凍らせたに過ぎない。薄氷が糸に張り付くだけで、その本質には届いていなかった。理を曲げることができない、「魔法」と同じ結果を生み出しただけ。
糸が防御魔法に激突し、強烈な衝撃がシアを襲う。脳が揺さぶられるような感覚。視界が一瞬白く染まり、膝が震えた。確実に、先ほどよりもフィリアが強くなっている。追い詰められた獣のように、絶望が彼女の力を研ぎ澄ませている。
(失敗したっ……! 力の使い方、きっとこうじゃない……!)
手段を考えるのではうまく行かなかった。氷の刃で切る、敵を凍らせる──そんな「やり方」ばかりをイメージしていた。だが、それがいつも望んだ結果に結びつかなかった。
なら、どうすればいいのか。
呼吸を整える。震える手で、もう一度杖剣を握り直す。柄が、掌の中でわずかに温かく感じられた。それは、まるでシアの想いに応えようとしているかのように。
その時――
『――来い、《絶刃》』
琴葉の凛とした声が、記憶の奥底から蘇ってきた。
闇そのものを削り取ったような、異質な刃が静かに顕現する光景。全てを呑み込む絶対の闇。光すら寄せ付けず、存在するだけで世界を切り裂くような──絶対の刃。
あの一閃。斬ったのではなく、ただ撫でただけだった。それだけで、異形の身体は音もなく横一文字に裂け、背後の海までもが沈黙のまま裂かれていた。
理不尽なまでの絶対性。
──あれならきっと、彼女の糸だって、なんだって切れる。
シアに剣技の知識はない。魔法の理論も、異能の知識も、戦闘の経験も足りない。
でも──
(無茶苦茶でいい)
もしも、イメージをそのまま現実にすることができるのであれば。もしも、星溶粒子が想いに呼応するのであれば。
結果だけを求めて。「そうあってほしい」と願って、力を振るってみるのは?
「……守りたいもののために」
シアの唇から、自然とその言葉が零れた。
守りたい。ルイを。響哉を。そして──フィリアも。
この糸は、フィリアの絶望が形になったもの。ならば、それを断ち切ることは、彼女を絶望から解放することでもある。
シアはもう一度杖剣を静かに構えた。その動作には、もはや迷いというものが微塵もなかった。その動作には、もはや迷いというものが微塵もなかった。先ほどまでの焦りも、恐怖も、琴葉の言葉に傷ついた心さえも──全てを、この一振りに託す。
杖剣の周囲に、大気の水分が集い始める。だが今度は違う。氷の形を作ろうとしていない。ただ、純粋に──
『この糸を、断ち切る』
瞬く間に、透明な氷の刃が成長していく。それは琴葉の《絶刃》のような漆黒ではない。オーロラのように虹色に煌めく、シアだけの刃。アメジストの瞳が深遠な輝きを増し、彼女の内側で目覚めたばかりの力が奔流となって渦巻いていた。
星溶粒子が、シアの魂の叫びに呼応して踊る。それは希望の光であり、同時に断絶の刃でもあった。
再び、糸が迫る。格子状に編まれた死の網が、容赦なくシアを捕らえようとする。
それをしっかりと見据えて──
「お願い――全て、《断って》!!」
強く、切実に願われる。もう、手段は考えない。氷の形も、魔法の理論も、全て捨てる。ただ一つ──『糸を断つ』という結果だけを、心の底から、魂の奥底から、願った。
世界の理が、シアの星溶粒子によって、形を変える。
剣が振り下ろされる。
最初の一本に氷の刃が触れた瞬間──運命の糸が断たれるかのように、他の糸も次々と断裂していった。
物理的な切断というより、まるで「糸であるという概念そのもの」が否定されるがごとく。空間に走る亀裂のように、糸は音もなく砕け散った。断面から白い霜が広がり、瞬く間に糸全体が氷の結晶へと変わっていく。
虹色の光が舞い、氷の破片が降り注ぐ。それはまるで、冬の朝に舞う雪のように美しく、そして儚かった。
「えっ……」
フィリアの口から漏れたのは、短く息の詰まるような声。信じられない光景に、彼女の目が見開かれる。切断された糸は無力に垂れ下がり、切断面から急速に凍結が広がっていく。白い霜が糸を伝い、やがて全体が氷の結晶へと変わり、静かに崩れ落ちた。
(嘘でしょ、ありえない……! 私の異能の糸は、剣や魔法なんかでは切れないはず……!)
フィリアの思考が混乱する。この糸は、物理的な攻撃では断ち切れない。魔法的な干渉にも耐性がある。それが、彼女の異能の絶対性だったはずなのに──
必死に針を振るう。新たな糸が格子状に生成され、シアを待ち受ける。今度こそ、今度こそ──
だが、それもシアは剣を一振りしただけで、全て断ち切ってしまった。もはや、彼女にこの手は通用しない。
「もう、糸は使わせない!」
フィリアが握る針を、シアは氷漬けにする。美しく、しかし容赦なく。それを砕けば──針も光の粒子となって消え失せた。
フィリアは完全に立ち尽くしていた。
シアの情報は事前に聞いていた。ルイの側で、防御魔法に徹していた少女。一度だけ、大規模な魔法を使い、当主様に一撃を加えたが、それだけ。あれはまぐれで、戦う能力はない。弱腰で、軟弱な魔法師だと。
だが、頭上から迫る白い影は、伝聞とはまったく別の存在だった。
――無茶苦茶だ。理不尽だ。
抗いようのない絶対性。
止められない。
アメジストの瞳が、フィリアを見下ろす。そこには憎しみも、軽蔑もない。ただ、深い哀しみと──優しさがあった。
「眠って……!」
シアの囁きとともに、足元から這い上がる冷気がフィリアの身体を包む。冷たい感覚が脚から腰、胸へと這い登り、最後の思考を凍りつかせる。フィリアの瞳に映る最後の光景は、涙を湛えたアメジストの瞳だった。
次の瞬間、そこには優美な氷像がひとつ。微かに口を開けた驚きの表情のまま、フィリアは静寂の中に封じ込められた。透明な氷の中で、彼女の美しい顔立ちは永遠の眠りについたかのように穏やかだった。虹色の光が氷像を包み、まるで祝福するかのように煌めいている。
シアは自分の手を見つめた。
白く小さな手。いつも誰かに守られてきた手。
(この手で……人を……)
まだ彼女は生きている。魔法を解けば、彼女は再び動き出すことだろう。それでも──吐き気がした。
今は意識はないだろうが、氷に包まれるその瞬間は、途轍もなく冷たかっただろう。恐怖を感じただろう。痛みを感じただろう。
きっと、これから先も何度も、この選択をしなければならない。守りたいものを守るために、誰かを傷つける。その矛盾を抱えて、それでも前に進まなければならない。
「ごめんなさい……」
小さく、シアは謝罪の言葉を口にする。
風が吹き、氷像の周りを舞った。虹色の光の粒子が、まるでフィリアの魂を慰めるかのように、静かに降り注いでいく。
しかし、その瞳は──確かな覚悟を持って輝いていた。
大切な人を、大切なものを、失いたくない。そして誰も、傷つかないでほしい。
大切なものを壊そうとする者を許さない。壊れかけた人には救いの手を差し伸べる。そのために、この手を汚す必要があるのであれば──その罪を背負う。
シアの中で、何かが確かに変わっていた。守られる少女から、守る者へ。その変貌は痛みを伴うものだったが、同時に必要なものでもあった。
『偽物』
あの言葉が、もう心を傷つけることはない。琴葉は否定したかったのではなく、警告しようとしてくれていたのだ。シアの力が異能だと見抜いていたから、制約や代償によって危険に晒されることがないように。また、想いだけで振るわれる力が、時として自分自身を──そして大切な人を傷つけてしまう可能性を。
それと──もしかすると、異能の理不尽さについて、彼女にも思うところがあったのかもしれない。憎しみか、羨望か。それとも、もっと深い感情か。魔法という力を、生まれながらの理不尽な異能と同一として認識されることが、苦しかったのかもしれない。
シアはくるりと後ろを振り返った。そこには、シアを見て苦笑いをしながら応急処置を進める響哉がいる。『とんでもないヤツが生まれてしまった』と言わんばかりの、引き攣った顔。
「終わったよ、響哉さん!」
声を張り上げる。その声は、もう震えていなかった。
彼女のアメジストの瞳に宿る光は、澄幽で初めて空を見上げた時の、あの希望に満ちた輝きを──いや、それ以上の、強い光を宿していた。
守られるだけの少女は、もういない。




