第二十三話 守るために棄てる優しさの形 - 2
粉塵となって消えゆく氷の破片を見つめるシアに、フィリアは静かに接近する。針を操り、糸が空中を舞う――左腕を吊り、右腕を縛り、首と腹部に冷たい感触がまとわりつく。シアは抵抗できなかった。
フィリアが深く、震えるような息を吸い込んだ。その胸の動きには、長年押し殺してきた感情が滲んでいる。そして、その視線がまっすぐにシアの瞳を射貫く――まるで刃のように鋭く、冷たく。
「――"当主様"を殺めたのは、あなたたちなのだそうね」
シアの息が浅くなった。『当主様』と呼ばれる人物が、すぐには思い浮かばない。
だが、一人。ある女の顔が、シアの脳裏に浮かんだ。
「……当主様っていうのは……?」
控えめに聞き返すシアの声は、かすかに震えていた。
フィリアは口を開き、声を出そうとした。しかし、数度、かすれた息だけが漏れた。二度、三度と浅い呼吸を繰り返し、喉を鳴らす。そして、不自然に胸の辺りを押さえつけた。
そして、苦しげに顔を歪め、それは笑顔とも泣き顔ともつかない表情を作って、ようやく絞り出したような声で、その名を告げた。
「ミレディーナ・ティフォン様」
――覚えている。忘れていない。
少し前、海岸でルイと共に戦った相手。法則を無視したあらゆる天災を操る異能で天変地異を軽々と引き起こし、何度もルイとシアを死の淵に立たせたあの女性をはっきりと覚えている。
逃げて、防いで、ルイとシアが彼女に傷を与えられたのは、本当に少しだった。まだまだ余裕そうだったが――琴葉の手によって、世界を飲み込まんとする巨大な津波とともに命を断ち斬られ、彼女は死んだ。
『こんなにも、ファロン様を想い、祈り、焦がれているワタクシを差し置いて――どうして、オマエが、その御心に触れているの……?』
ルイに激しい怒りをぶつけていた彼女の言葉も、鮮明に覚えている。
「聖母のように清らかで、美しく――それでいて、子供のように我儘で……救いようのない方でした」
フィリアの口元が歪み、引きつった笑みを浮かべる。その表情には、もはや人間らしい感情の一片も感じられない。魂を抜かれた人形が、無理矢理に笑顔を作らされているような、底知れぬ不気味さ。瞳孔は虚ろに拡散し、瞬きさえ忘れたままだ。
「本当に……お気の毒な方でした。決して報われることのない恋に、すべてを捧げ続けて。
荘厳なお屋敷も、膨大な富も、私を含む忠実な使用人たちさえもすべて投げ打ち……ついには自らの命までも」
フィリアの手が胸の前で震える。それは亡き主を抱き締めようとするような、しかし何も掴めない虚ろな仕草。指先は蒼白く震えていた。
「……なんと愚かしい……本当に……本当に……!!」
フィリアの声は慟哭に裂ける。
「それでも――あの無垢に輝き、必死に駆け抜けるあの美しいお方が、たまらなく愛おしく、大切だったのにっ!!」
それと同時に、ギリッと、シアの首に巻かれた糸が軋む。針金のような冷たさが喉の奥まで食い込み、シアの息を奪った。痛みに悶えそうになるが、それよりも――目の前の、壊れた女から目が離せなかった。
積もり積もった感情が、ついにフィリアの心の堤防を決壊させた。目から溢れる涙は、もはや悲しみではなく、歪み切った愛情が腐敗して結晶化したような、冷たく鋭い輝きを放っていた。
これをもたらしたのは、知らない誰かではない。
「叶わない恋のために、いったいどれだけのものを犠牲にしたのかしら!
自身の命まで投げ捨てて、なお、報われないこの果てに何があるというの!?
ふふ、ふふふ……あははは!」
笑い声が次第に狂気を帯びていく。その笑みの中には、深い絶望と怒りが渦巻いている。
「あの方が……あの優しくて脆い方が、もっと早くに『諦め』という知恵を身に着けていれば!
こんなにも無様に、惨めに、散ることはなかったはずなのに!!」
フィリアの身体が微かに震える。長年仕えてきた主への想いが、彼女の理性を蝕んでいる。指が無意識に縫い針を握り締め、関節が白くなる。
「……ミレディーナ様は……私たち使用人を本当に大切にしてくださった。
異能が開花した当初、あの方は何度も私たちを異能者や自然の脅威から救ってくれた。
心優しきあの方が……ご主人様のために……と道を踏み外していくのを見るのは……たまらなく、辛くて……!」
フィリアの声が詰まる。涙が止めどなく溢れ出し、それまで保っていた優雅な仮面が完全に崩れ落ちる。
「何度もご主人様を殺したいと思いましたわ! あの方がいなければミレディーナ様はこんな結末を迎えなかったはず! でも……」
「ミレディーナ様が……それを望まれないから……」
顔を覆って、フィリアは俯いた。限界だった。
「……ミレディーナ様」
フィリアの声が低く唸るように震え、糸の張力が一気に高まる。それはもう、単なる物理的な締め付けではない――亡き主への後悔が、狂気の形をとって現実を歪め、主の仇の命を絞め殺そうとしている。
「ミレディーナ様を見限ったご主人様へ」
「ご主人様の心を奪い去ったルイという少年へ」
「彼を庇い、ミレディーナ様を追い詰めたあなたたちへ」
「そして――」
一呼吸置き、フィリアの声に深い憎悪が結晶する。
「ミレディーナ様に直接手を下した、黎冥の死の女へ」
ギリギリ……と、首を締める糸が不気味な音を立てる。シアの視界が歪み、肺から空気が搾り出されていく。彼女の指が糸を強く引くその動作は、もはや優雅さのかけらもなく、狂気に駆られた屠殺者の如く荒々しい。
「復讐しなければ……ミレディーナ様のために――!」
意識の糸が細くなるのを感じる――その時。
「砕け、《暴槌》」
深淵を揺さぶるような低音とともに、空間が歪み裂ける。
漆黒と黄金が渦巻く巨槌が響哉の手に顕現する。それは「暴槌」──存在そのものを構成する理を分解する異能の具現。魔法では断ち得ぬ糸も、この槌の前では塵に還る運命にある。
糸のみを標的に巨槌が振り下ろされる。物理的な衝撃ではなく、存在の根源を揺るがす振動が空間を伝い、シアを縛る糸を無機質な粉塵へと還元していく。
しかし、代償は即座に牙をむいた。
「ぐっ……!」
響哉の右肩から胸にかけて、衣服の下で何かが不気味に蠢く。内側から崩壊する肉体──異能の代償として、彼自身の一部が砕けたのだ。脂汗が額ににじみ、唇を強く噛みしめるが、彼は足を踏みしめて崩れない。
「響哉さん!?」
「大丈夫だ」
震える声で放つその言葉とは裏腹に、響哉の顔には明らかな苦痛の皺が刻まれている。
自由を得たシアが駆け寄ろうとするのを、響哉は鋭い眼光で制止する。
「お前は優しすぎる」
響哉の声には、苛立ちとどこか呆れにも似た感情が滲んでいる。
「俺や、このメイド共と違って、自分が生き残るために他人を攻撃することに躊躇しすぎてる」
響哉は苦しげな息を吐きながら、力強く言った。
「それだと死ぬぞ。それも、シアちゃんだけじゃなくて、珠桜様も、律灯も、琴葉も、俺も――ルイ君も」
その言葉に、シアは息を呑んだ。響哉がこれほどまでに真剣な表情で、叱るように話すのは初めてだった。
「でもっ……!」
「『殺したくない』か?」
「……!」
響哉の声は、刃のように冷たく、そして渇いていた。
「それなら、何も殺さずに、お前が守りたいものに降りかかる理不尽を、全て打ち消して無害にするほどの力を、お前は出せるのか? 奪いにくるものを真っ向から否定する力を」
響哉の問いが、シアの胸奥に重く突き刺さる。その言葉の重みに答えられないでいるうちに――
フィリアの糸が怒涛のように襲来した。銀色の殺意が部屋に差し込む微かな陽光を反射し、部屋全体を死の罠へと変貌させる。響哉はシアを強く抱え、魔法で創り出した不可視の足場を蹴る。しかし、その動きには明らかな鈍りがあった。
「チッ……!」
触れれば四肢が千切れる――そんな凶悪なまでの殺意が込められた糸の森。暴槌使用の代償で内部が崩壊しつつある体に、さらに追い打ちをかけるように、響哉の額に死の脅威が迫る。それでも彼は、苦痛を噛み殺し、シアを守り抜くために戦い続ける。
逃げ場がなくなる中、響哉の呼吸は次第に荒くなる。肺が軋むような音が、至近距離で聞こえてきた。
「《守れ》……!」
響哉は素早く防御魔法を展開し、前方に暗い障壁を展開する。糸が障壁にぶつかり、火花のような魔力の残滓が散る。その隙に、彼は慎重にシアを床に下ろすと、自身の崩壊しつつある右腕を押さえた。顔を一瞬歪め、彼は腰に下げたベルトから応急処置用のバンドを取り出す。歯で一端をくわえ、左手でぐいと引っ張り、右腕を無理やり胸部に固定する。荒々しい呼吸の間に、汗が床に落ちた。
「……理不尽の全てを打ち消すなんてこと、俺にはできない。世界の理を書き換える異能の力は、俺には与えられなかった」
響哉が静かに言葉を紡ぐ。その声には、長年にわたって積もり続けた諦念が深くにじんでいた。無数の戦場で、異能があればと願った日々。それでも決して手にすることのできなかった力。ようやく習得した魔法でさえ、この世界の根本的な理不尽と対峙するには、時に無力になる。
「でも……私だって、異能なんて……!」
シアの声が必死に震える。無力さに打ちひしがれ、歯がゆさが胸を締め付ける。
それを見て、響哉が意を決したようにシアに目線を合わせた。そして。
「お前の力は"魔法じゃない"」
響哉の断言は冷たく、そして確信に満ちていた。
『あなたの力は"偽物"――自分が何を使っているのか、理解もせずに振り回しているだけ』
澄幽で、琴葉に言われた言葉が脳裏を刺す。あの時の冷たい眼差し。傷口が今、じんわりと疼きだす。
「そんな、響哉さんまで……!」
シアは思わずうつむく。もう誰も認めてくれない――そんな絶望が、心臓を握り潰すように苦しい。
仕方ないと、絶対に諦めたくなかった。ルイはきっと戦い続ける。ルイは強いから。戦うルイの力になりたい。側で、後ろで、支えてあげたい。彼が帰ってくるのを、ずっと心配しながら待っているだけになるのは、何が何でも嫌だった。
自分も、戦って、役に立ちたい。ルイの、響哉の、澄幽のためになりたい。
それなのに。自分は、あまりにも弱すぎる。
「じゃあ、なんだって言うんですか! 私の魔法って、一体!」
「異能だ」
響哉の言葉は、あまりにもあっさりと、それでいて確信に満ちていた。
「……え?」
一瞬、理解が追いつかない。耳を疑うシアに、響哉は淡々と続ける。
「海岸でのあの魔法を見りゃ一発でわかる。魔法発動までの工程を完全に無視して、願いだけですべてを捻じ曲げる――本来あるべきプロセスを一切踏まない、まさに『異能』そのものだ」
響哉の目は、まさに真実を見透かすようにシアを見つめる。
「制約か何かで、魔力は確かに利用されていた。だからこそ、これまで魔法だと誤認していたのかもしれん。異能と魔法の区別っつーのも、特別な"目"を持ってるだとか、魔法に精通してるヤツじゃねえと難しいし」
シアは言葉を失った。自分がずっと信じてきた魔法が、実は――
「お前は、世界の理を書き換えて、魔法のように見える力を使っている。
『願いを、魔力を媒体として現実に引き出す』――多分、そんなぶっ飛んだ異能が、お前の力の正体だ」




