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第二十三話 守るために棄てる優しさの形 - 1

 一方、シアはゆっくりと降りてきたフィリアと対峙していた。背後に響哉の気配を感じるが、彼はあえて介入しない。ここは彼女を成長させるための戦いとおいているからだ。

 フィリアの糸は「断てない」という概念そのものが世界の理に組み込まれている。魔法は根源的な概念を否定することはできないため、響哉では彼女の糸を断つことはできない。暴槌を使えば可能だろうが、その代償はあまりに大きく、まだ使用すべき時ではない。


 しかし、シアならできる。

 澄幽で琴葉が指摘した、彼女の"偽物の"魔法であれば。



 シアは杖剣を握りしめ、白く輝く刃先をフィリアに向けた。研磨されたばかりの刃は罪のない鏡のように清らかで、そこに映る自分の瞳はかすかに震えていた。


(……これを使って、彼女をどうすれば……殺すのは……)


「不思議ですわ」


 フィリアの声は、優雅でありながらも鋭い観察眼を感じさせた。シアが顔を上げると、フィリアは首をかしげ、複雑な表情を浮かべている。眉は憐れむかのように悲しげに下がりながらも、口元は嘲るように冷ややかに歪んでいた。


「これほどまでに"生きることへの渇望"が感じられない方が、なお息を続けていらっしゃるとは」

「え……?」


 シアの困惑した声に、フィリアの微笑みが深まる。


「お気になさらず。一介のメイドの戯れ言ですわ」


 "生きることへの渇望が感じられない"。その言葉は、シアの胸の奥深くで鈍く響き、心臓を締め付けるような痛みを伴った。


「そんな……私は、生きたいと思っています」

「もちろん、そうでしょうね」

「なら、どうして……」


 フィリアの視線がシアの杖剣へと移る。


「その武器を持つ手に、『守りたい』という意志は感じられます。しかし……」


 わずかな間を置き、フィリアの声がさらに優しく、しかし刃のように鋭くなる。


「必死さが一切感じられません。その武器を振るわずに、この場を切り抜ける方法があると思っているんですか?」


 フィリアの指が優雅に動き、無数の光る糸が空中でゆらめく。その目はシアを測るように細められ、まるで獲物の弱さを探る捕食者のようだ。


「殺さなければ殺される。だから、殺される前に殺す。そこの男性はよくわかっていらっしゃるようですが」


 フィリアの視線がシアの後ろに佇む響哉へと恨めしげに向けられる。当然のことだ。フィリアは響哉に一度焼き殺され、ナターシャの異能によってかろうじて蘇ったばかりなのだから。

 自分たちに害をなす存在は、出会い次第排除する。あるいは、気付かれる前に葬る。それが響哉の鉄則だった。今回の場合も、それに従ったまでのこと。蘇生を可能とする異能者がいることは想定外ではあったが。


 痛みと屈辱が生々しく宿っている瞳は、再びシアへと戻された。シアの肩がビクリと跳ねる。フィリアは嗤っていた。


「あなたはどうですか? 私のこと、殺せそうですか?」

「そ、それは……」


「できなくても、もちろん構いません――あなたが死ぬだけですから」


 刹那、フィリアの左手の指が軽く跳ねる。それと同時に――シアの身体が強い力で横に押し出された。

 響哉だ。彼の手がシアの肩を掴んでいた。それに驚いた次の瞬間、空中に無数の銀色の閃光が走る。フィリアの糸が、シアの顔があった空間を縫うように疾走し、鋭い切断音が空気を振動させた。シアの頬にぽつりと温かいものが伝う――糸が掠めた傷から血の雫が浮かび上がり、ゆっくりと頬を伝い落ちる。


 一連の動きはあまりにも速く、シアの目はほとんど追えなかった。ただ、死の香りと、響哉の手の温もり、そして頬の痛みだけが、現実を残酷に告げる。


(これ、本当に死ぬ――っ!)

「シアちゃん!」


 響哉の鋭い呼び声が、シアの意識を現在に引き戻した。

 そして再び、糸の大嵐が襲来する。無数の銀糸が狂乱の蛇のように渦巻き、全方位から襲いかかってくる。


「守って!」


 シアの必死の叫びとともに、真珠色の輝きが爆発的に広がり、シアと響哉を包んだ。バツン!バツン!という高音の破裂音が連続し、無敵の糸たちが次々と跳ね返されていく。フィリアの絶対に断つことができない糸も、シアの防御魔法を貫通するだけの力はないようだ。


 フィリアは軽く顎に手を当て、鑑定士のような眼差しで防御膜を観察する。しかし、その瞳の奥には、むしろ興奮の色が宿っている。

 一方、シアは全身に戦慄が走るのを感じていた。


(彼女は人を殺すことを楽しんでる……?)


 フィリアがゆっくりと顔を上げた。針を握った左手とは対照的に、右手が腰のポーチへと滑り込み、まさぐる。

 ほんの一瞬、だが確実に生まれた隙だった。


(今だ……!)


 シアが杖剣を握りしめる。汗で濡れた手のひらがグリップに張り付き、心臓の鼓動が直接伝わってくるようだ。


 やらなければ。

 今、私が立ち向かわなければ。


(氷の矢……いや、もっと速い攻撃が必要……風の刃とか? どこを切れば命は……)

(彼女の動きを封じるなら……床を氷で覆って……でもそれだけじゃ脱出されちゃうかも……)


 頭の中で戦術が渦巻くが、どれも不完全だ。非致死な方法では抑えきれず、致命傷を与える決断は重すぎる。手加減すれば自分が殺され、本気を出せば人殺しになる――この板挟みが思考を麻痺させる。

 焦燥感が胸を締め付け、呼吸が浅くなる。魔法のイメージがあと一歩のところまで編み上げられながら、求める"結果"が何一つ定まらない。


(どうすれば……どうすれば確実に……)


「シアちゃん」

「――あ」


 響哉の声に現実へ引き戻され、シアは自分がうつむき、無意識に剣先を下げていたことに気づく。慌てて姿勢を正し、視線を上げる――しかし、そのわずかな躊躇が致命傷となった。

 フィリアはすでに新たな"武器"を手にしていた。一見すると普通の手芸用ハサミ。小さく、無害そうで、どこの家庭にもありそうなものだ。

 だが、その銀色の刃が不気味な輝きを放ち、シアの目をくぎ付けにする。なぜか、これまでのどの武器よりも危険だと直感した。まるで、このハサミだけは彼女の絶対防御さえも切り裂くことができるかのように――


「……」


 フィリアがゆっくりと近づいてくる。その足音は規則的で、まるで死刑執行人の歩調のようだ。一歩ごとに距離が詰まり、シアの逃げ場がなくなる。


「……っ、近寄らないでください! 本当に攻撃しますよ!」

「どうぞ、存分に?」

「次、もう一歩でも進んだら――!」


 ――ダン。


 シアの警告を軽く流すように、フィリアは優雅に一歩を踏み出した。響いた足音は、一瞬シアの鼓動を止めた。まるでこの一歩は、彼女の決意のなさを嘲笑っているかのようだ。


「……さて、どうなさいます?」

「っ……!」


 手の震えが止まらない。鼓動が早鐘のように鳴り、耳の中で血の流れが聞こえるようだ。


 落ち着いて、息を整えて。

 戦わなければ、死んでしまう。


「……氷よッ!!」


 シアの絶叫とともに、周囲の温度が急激に低下する。床一面に氷の結晶が咲き乱れ、フィリアの足元を瞬時に氷漬けにした。メイド服の裾から腰へ、そして胸へと冷気が這い上がり、彼女の動きを完全に封じる。


 仕留めた。この隙に、とどめの一撃を――

 シアの周囲の空間に、氷の花弁を模した無数の刃が生成される。一つ一つが繊細に彫られ、外の光を受けて虹色に輝く。美しさの裏に、確実な死の気配が存在する。

 これら全てをフィリアに叩き込めば、決着はつく。


 ――命を奪うことで。


 氷の刃はあまりに美しく、現実とは思えない輝きを放っている。

 夢のように幻想的で――しかし、その一片一片が死を運ぶ、残酷なもの。


「……っ!」


 振り下ろすべき腕が、鉛のように重い。指先は冷えきり、震えが止まらない。まるで他人の腕のように、意志から切り離されてしまった感じだ。心臓は激しく鼓動しているのに、手足だけが凍りついたように動かない。


(やっぱり、誰かを殺すなんて……私には……!)


 フィリアは氷に閉ざされた足元からもまったく動じず、むしろ興味深そうにシアの苦悩を見つめている。その口元には、ほのかな微笑みが浮かんでいる。それは慈愛に満ちているように見えて、どこか冷ややかだ。


 ――だが。


「……うーん、そろそろ……時間切れですわ」


 フィリアの声が、まるで遊びに飽きた子どものように響く。



 バキン!



 次の瞬間、氷の刃たちが一斉に粉々に砕け散った。


「なっ!?」


 シアが目を凝らすと、いつの間にか張り巡らされた無数の糸が、氷の刃を正確に串刺しにしていた。一本一本の糸が刃の中心を貫き、氷が一撃で砕かれる場所を的確に狙っている。

 フィリアの糸では魔法は破壊できないのではなかったか。――違う。先ほどの防御魔法は、シアの意志が強固だったために、フィリアの異能を上回る強力な防御魔法が生み出されただけだった。しかし、今回の心が乱れたままに生み出された氷の刃は酷く脆い。フィリアの力でも、十二分に打ち消すことができる。

 パリン、パリンと、砕け散る氷の結晶がかすかな音を立てながら消えていく。その音は、シアの心までもが砕けていくようだった。指先が震え、下唇を噛みしめてしまう。必死に生み出した魔法がこれほど簡単に破壊される現実に、胸が締め付けられる思いだ。


 そしてフィリアは、足元を覆う氷の束縛を、ほんの軽く足を振るうだけで振りほどいた。キシリという氷の軋む音とともに、無数のひび割れが走り、たちまち粉々に崩れ落ちる。彼女の歩みは一度として止まることなく、むしろ以前よりも確信に満ちた足取りで近づいてくる。その瞳には、もはや遊び心の片鱗もなく、冷徹な決意だけが鋭く光っている。

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