第二十二話 咲く毒花を散らす銃火には - 4
引き金にかけた指が動かない。
全身が激しく震える。恐怖ではなく、沸騰する怒りによる痙攣だ。
拳を握り締めれば爪が掌に食い込み、鮮血が滴る。歯を食いしばれば奥歯が軋み、顎が悲鳴をあげる。
それでも、引き金を引き絞る指が動かない。脳が拒んでいるかのように、ビクともしない。
ルイの額に冷や汗がにじむ。心の奥底で、微かに囁く声が聞こえるようだった。
――撃ってはいけない。この女を傷つけてはいけない――
それは、明らかにルイ自身の思考ではなかった。
その瞬間――メディアの身体が、まるで電流が走ったかのように大きく震えた。彼女の瞳が見開かれ、瞳孔が極限まで開く。息が止まる。
一秒、二秒――
そして、堰を切ったように。
「あ……ああ……あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
メディアの声が空間を切り裂く。
それは叫びでも笑いでもない──狂気そのものが音となった歓喜だ。
全身を激しい痙攣が襲い、頬は病的な紅潮に染まり、目尻には至福の涙が煌めく。
「こんな……こんな完璧な瞬間は……初めてですわ!」
涙が、頬を伝って流れ落ちる――狂気の至福に満ちた、歓喜の涙だった。
彼女の両手が、自分の身体を抱きしめるように交差する。まるで自分自身を慰めるかのように。
「ルイ様は今、私を撃ちたいと思っている……殺したいと思っている! でも、できない! 貴方様の意志が、貴方様自身の手を縛っている……!」
メディアの声が熱に浮かされて、震えていた。
「……あぁ……ああぁぁッ! 素晴らしい! この激しい感情の迸り! まさに私が求め続けていたものですわ、ルイ様ッ!」
彼女の表情は歪み、頬は狂気の紅潮に染まる。最高の芸術品を前にした収集家のように、瞳は恍惚に輝き、呼吸は荒く、興奮で全身が震えている。
「その指、動かないでしょう!? ふふっ……あははは! 悔しい? もがけばもがくほど、私の愛があなたの魂に刻まれていくのを感じますか!?」
メディアが高らかに嗤う。その笑い声は、優雅さを装いながらも、その奥に狂気の音色を孕んでいる。まるで壊れたオルゴールが奏でる不協和音のように、美しさと恐怖が混在していた。
「私の異能は一度刻まれたら、決して消えません! ゆっくりと、確実に、あなたの心の奥深くで成長し続ける……いつかきっと、あなた自身が私を求めて泣き叫ぶ日が来る! もう、誰にも止められない! ふふ、あはははははは!!!!」
メディアがルイの手をとった。するりと銃を引き抜いて、大切そうに──しかし窒息しそうなほど強く抱き締める。その抱擁は愛の形をしているが、その実態は支配そのものだ。
「ああぁぁ……今まで支配してきた誰よりも魅力的ですわ、ルイ様……! ご主人様、感謝いたします……こんな完璧な人形を私にお与えくださって……!」
メディアの声が、より甘く、より熱く、危険に染まる。
「素直で、純粋で、可愛らしくて、清らかで、そして……簡単に壊せる……」
彼女の指が、ルイの髪を梳き、頬を撫で、首筋を這う。所有物を確認するように、丹念に。
「ふふふふふ、ああ、愛おしい……たまらなく愛おしい!」
そして彼女はその銃を自分の胸に当て、ルイの手ごと握りしめる。
「ねえ、ルイ様……今なら撃てますよ?この胸を撃ち抜いてみせて? でも……できませんよね! あははは!」
「こんなに美しく抗い、こんなに美しく屈する……! あなたの怒りも、憎しみも、絶望も――全てが私の愛を深めるのです!」
「さあ、もっと抗って! もっと私を憎んで! そうすればするほど、私の異能はあなたの心に深く根を張り、永遠の支配が完結します!!」
メディアが、ルイの唇の端に自分の唇を軽く押し当てた。
メディアの息が、ルイの顔にかかる。
甘い香りと、狂気の熱が混じり合った、吐き気を催すような生温かさ。
ルイの瞳が、静かな炎のように燃え上がった。それは激情の炎ではなく、決意の炎――揺るぎない意志の色だった。
――ドン。
鈍く重い銃声が、静寂を破った。
「…………ぇ?」
メディアの表情が、ゆっくりと変化していく。困惑から理解へ、そして痛みへ。彼女の胸から鮮血が滲み出し、深い青のメイド服を黒く染めていく。美しい白髪が風もないのに揺れ、糸が一本、また一本と、ほつれていく。
「……精神干渉の異能だろ?」
ルイの声は驚くほど冷静だった。銃口から立ち上る硝煙が、彼の緑の瞳を霞ませる。
「どう表現しようが、お前の力のすべては異能でしかない……その異能を、操作できない道理はないだろ」
彼は《異能操作》の矛先を、外に向けるのではなく、自分自身の内部へと向けた。メディアが仕掛けた「支配」の種――それは異能の残滓であり、心に巣食う異物だ。
だが、自分の精神がどのように構成されているか、詳しくはわからなかった。だから、荒療治になった。メディアの異能の気配を感じる部分を、ただただ、無理矢理に断ち切った。
後遺症が残るかもしれない。
だが、それ以上に――この女をここで止めなければならない。
「……たとえ……どれほど醜い手段を使おうと……ご主人様は貴方様のことを……手に入れたいとおっしゃっていました」
メディアの声は震え、血の気の引いた唇が痙攣する。彼女の笑顔は歪み、もはや慈愛の仮面は完全に剥がれ落ちていた。困り眉の奥から覗くのは――死への恐怖と絶望だけだ。
「愛する人たちを……一人ずつ支配し……貴方様が屈服するまで……殺し続ける……あの幻のように……」
メディアがよろめく。血を流しながら、彼女の口元が歪んだ笑みを作る。
「人殺し」
「なんだって言えばいい」
ルイの声は冷たく、決然としている。
彼の脳裏には、幻で見た光景が鮮明に蘇る。シアの泣き声、響哉の崩れ落ちる身体、律灯の絶望、珠桜の無念――たとえ幻であれ、あの痛みは本物だった。
「お前たちが目指す世界――無差別な支配と殺戮の上に築かれる理想なんて、俺は決して認めない。信用しない」
メディアの体から、ゆっくりと力が抜けていく。ギッと、糸が軋む音がした。
前髪に隠れた向こうで、唇が動いたような気がした。
『どうして』と。
ルイは押し殺した声で、最後に告げた。
「……たとえ世界が敵になろうとも、俺は守りたい人たちを裏切りたくない」
これが、ルイの答えだった。
シアの笑顔。響哉の背中。律灯の優しさ。珠桜の信頼。
それらすべてを、ルイは守りたかった。たとえ自分が「人殺し」と呼ばれようとも。たとえこの手が二度と清くなることはなくても。
「大切なものを傷つけようとするお前を――俺は絶対に許さない」
メディアは完全に動かなくなった。
ルイは銃を下ろし、深く息を吐いた。
――不思議と、いつもと違い、手は震えていなかった。
異能者と対峙した時は、震えていた。その次も。ミレディーナに銃を向けた時も。命を奪うということの重さに、ルイは普段、押し潰されそうになっていた。
だが今は――
(……守れた)
その事実だけが、ルイの心を満たしていた。
自分にそう言い聞かせながら、ルイはそっと目を閉じた。
右腕以外の部分に巻き付くフィリアの糸――その存在を、今まで意識の隅に追いやっていた。だが今、その糸が視える。星溶粒子の流れとして、異能の残滓として。
支配する。
糸が、一瞬で消失した。まるで最初から存在しなかったかのように、ルイの体から離れていく。フィリアの異能は強力だが――所詮は「異能」だ。ならば、《異能操作》の支配下にある。
重力に身を任せ、ルイは床の方へ落下を始めた。
風が頬を撫でる。視界が流れる。
その落下の最中、ルイの瞳には――揺るがない決意の光が宿っていた。




