第二十二話 咲く毒花を散らす銃火には - 3
その時、視界を覆っていた闇がふわりと解かれた。
薄明かりの中で最初にルイの意識に飛び込んできたのは、頬を包む柔らかな温もりだった。指先から伝わる微かな震えが、抑えきれない興奮を物語っている。その手の主が誰なのか、気づくまでに時間はかからなかった。
「ああ……ルイ様……」
甘く湿った声が、静寂を破って響く。メディアだった。困り眉にたれ目、先ほどまではおっとりとした表情を浮かべていた彼女の顔が、今は深い紅潮に染まっている。長い白銀の睫毛が作り出す陰影の下で、その瞳は危険な光を宿していた。
「はぁ……とても……お可愛らしいですわ……」
彼女の頬は深く紅潮し、まるで夕焼けに染まる雲のようだ。息遣いは浅く、熱く、その一つ一つが甘い香りを運んでくる。困り眉がわずかに吊り上がり、たれ目は妖艶に細められている――苦悶と歓喜が入り混じった、危険な美しさをたたえている。
ルイの潤んだ瞳を見つめながら、メディアの唇が微かに震える。彼女の視線は、ルイの顔を丹念に、貪るように辿っていく。
「瞳が潤んで……こんなにも険しい表情をなさって……」
彼女の手がルイの頬をそっと撫でる。その触れ方は、宝物を扱うように慎重でありながら、激しい感情を必死に堪えているかのようだ。
「あらあら……お口の端から……甘い唾液がたれてしまっていますわ……」
メディアの声は蜜のように濃厚になっていく。彼女自身もその興奮に戸惑っているかのように、一度目を閉じ、深く息を吸った。
「ルイ様……もっと……もっとその苦悶の表情を見せてください……」
突然、彼女の手に力が込められる。グイッとルイの頬を両手で包み、強い力で上を向かせる。その動作には、慈愛と強制が奇妙に共存している。
――そして、表情が変わる。
「ルイ様……」
先ほどまでの熱狂が嘘のように、メディアの声は落ち着きを取り戻した。しかし、その落ち着きこそが却って不気味だった。困り眉で心配するような表情の下で、瞳の奥には冷たい観察眼が光っている。
「あれは、まだ『幻』です」
心から心配するような表情。だが、その瞳の奥には冷たい観察眼が光っている。ルイの反応を一つも逃すまいと注視する、研究者のような鋭さだ。
メディアの左手がルイの頬から離れ、そっと彼の胸元に触れる。心臓の鼓動を感じ取るかのように。
「でも……私の言うことを聞いてくださらないなら」メディア声が次第に低くなり、囁くような調子に変わる。声が、ルイの唇にかすかに触れた。甘く危険な誘いを運んで。「あの幻が……現実になってしまうかもしれませんね」
一瞬の沈黙。ただ二人の息遣いだけが聞こえる緊迫した空間。
メディアはゆっくりと首を振り、悲しげな表情を浮かべた。
「私は……あんな未来は望んでいません。ルイ様も、シアさんも、響哉さんも……みんな幸せになってほしいんです」
彼女の目尻に、本物らしき涙が光る。しかし、その涙さえも彼女の狂気の一部なのかもしれない。
「だから……お願いです。私の言うことを聞いてください」
メディアが身を乗り出し、ルイの額に自分の額をそっと当てた。その肌の触れ合いは驚くほど温かく、吐息が甘くルイの鼻をくすぐる。ルイの半開きの唇からは、かすかに息が漏れているだけだ。
虚ろな瞳は焦点を結べず、ただメディアの影を受け止めるように揺らめいている。瞼は重く、時折微かに震えるが、それは抵抗ではなく、壊れた人形の残骸のような動きだ。彼の指先が微かに痙攣し、かつて銃を握りしめたその手は、今は無力に緩み、銃を取り落としそうになっている。
「ご主人様のもとへ……大人しく来てください。そうすれば……みんな傷つかずに済みます」
メディアがほんの少し顔を離し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。聖母のような、清らかな笑顔でありながら、本質は全く違う。彼女は聖母でもなんでもない、獲物を確実に手中に収めた捕食者でしかない。
ルイの頬を流れる一筋の涙は、もはや抵抗の証ではなく、壊れた心の残滓に過ぎない。メディアの指がその涙を優しく拭い、その指先を自分の唇に運ぶ仕草は、所有の儀式のようだった。
「従ってくれますよね? 賢い……ルイ様」
メディアの声は蜜のように甘く、その言葉はルイの傷ついた精神に深く染み込んでいく。ルイのわずかに開いた唇からは、かすかな息遣い以外、何の反応もない。彼の内側では、もう何もかもが壊れ、沈黙していた。
「それとも……あの幻を……現実にしたいのですか?」
沈黙が一瞬流れたあと、不意にルイが深く息を吸い込んだ。
「……一つ、聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
メディアの首の傾げ方が、不自然に可愛らしかった。無邪気な少女を演じながら、その瞳の奥には深淵な謀略が渦巻いている。
「なぜ……お前たちは、俺を執拗に狙う?」
メディアの唇がほころぶ。それは慈愛に満ちた微笑みでありながら、どこか狂気を帯びていた。
「それはもちろん――」
彼女の声が甘く響く。蜜のように甘く、毒のように危険に。
「貴方様が、あまりに魅力的なお方だからです。特に……その異能が」
ルイの目がかすかに見開かれる。まさか、自身の異能そのものが標的だとは。
メディアが身を寄せ、その吐息がルイの耳元でささやく。
「想像してみてください、ルイ様……」
彼女の声は、夢見る少女のようでありながら、狂信的な熱を帯びていた。ぞわりと、背筋が震える。
「貴方様の手で、あらゆる異能を掌握し、私たちと共にこの世界を創造し直すのです」
肩に手が置かれ、じわりと体重がかけられる。逃れられない拘束のように。
「この館には、私たちメイド以外にも、ご主人様に仕える多くの者が集っています。植物に命を吹き込む異能、時間の流れを操る異能、死者と語らう異能、過去を覗き見る異能……
そして、ご主人様は"有"を、思いのままに再構成なさる」
メディアの両手が胸の前で組み合わさる。祈りの姿勢ながら、そこには歪んだ欲望がにじむ。
「しかし……私たちだけでは足りない。この星そのものを造り変え、過去に散った命すら蘇らせるには……もっと大きな力が必要なのです」
突然、彼女の声に熱烈な興奮が宿る。
「ですが! 貴方様の力があれば……この夢は現実になります! ご主人様もそうおっしゃっています! 貴方様なら、異能の限界を超え、その制約や代償さえも無効にできる……貴方様のお父様も、同じ力を持っていらしたと聞いています!」
彼女の言葉は、理想を語りながらも、そこには恐ろしいまでの傲慢が潜んでいた。神の領域に足を踏み入れようとする者の、危険な誘惑。
「失われた命を、すべて取り戻しましょう。
しかし、争いの種は必要ありません。破壊をもたらす異能は、すべて抹消すればいい」
メディアの瞳が、赤く、爛々と輝いた。
「一時的なものでも、幻想のものでもなく! 真に平和で、完璧な世界を創りましょう! その理想郷で暮らす人々の笑顔を、私は見たいのです!」
――世界の再創造。
なんと、立派な理想だろうか。ルイの胸中に、激しい葛藤が渦巻く。
変異体ミコの加護がなければ生きられない澄幽、外には星骸や異能者の脅威が蔓延る現実。もしこれが実現すれば、シアや仲間たちを本当の意味で守る道になるかもしれない。
だが。
「私も、全力でお手伝いいたします」
メディアの声が、さらに甘美に、危険に響く。
「もしどこかの国が戦争を起こそうものなら……私はすべてを支配して、解決してみせます。この異能の力で」
彼女の指が、ルイの頬をそっと撫でる。
――答えは、決まった。
本当に、わずかな動きだった。ルイは自身の異能を極限まで研ぎ澄まし、フィリアの糸の拘束を右腕のみにかけて緩めた。ガシャッ!と、金属が軋む音を立てて銃が握り締められる。
銃口がメディアのこめかみに押し当てられ、冷たい鋼鉄が彼女の温かい肌に食い込む。
「――ふざけるな」
ルイの声は地獄の底から這い上がるような轟きだった。それはもはや人間の声ではなく、怒りそのものが具現化した音だ。
メディアの優雅な仮面が一瞬で崩れ落ちる。彼女の目が見開かれ、初めて本物の驚愕が表情を支配した。
ルイが引き金に指をかける――
……だが、動かなかった。




