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第二十一話 ウェルカム・トゥ・サンクチュアリ - 2

「《Strophē(さらに捻れ)》」


 今度は単なる回転の域を遥かに凌駕した。部屋という空間のみならず、この世界を支配する物理法則の根幹までもが、捻じれ、曲げられる。

 重力という絶対的な制約が上下左右前後へと四散し、物体の運動を定める慣性の法則が無化され、エネルギー保存の原理さえも嘲笑の的となって消失する。まさに「掃除」の大義名分の下、現実そのものの根底が根こそぎ洗浄され、世界の理が蹂躙されていく。


 視界の端で、エウクレイア以外のメイドたちが部屋の外界へと一斉に退避している影がちらりと映ったが、あまりに突然の事態に咄嗟の判断を下しきれなかったシアが、その退避の波に続くことは絶対的に不可能だった。


「きゃあっ!」


 シアの悲鳴が、歪み切った空間構造に木霊し、異様な反響となって響哉の鼓膜を打った。彼女の華奢な身体が再び宙に舞い上がり、まるで見えざる巨人の手に弄ばれる羽根のように無力に浮遊する。


「響哉さん!」


 シアの絶叫が、捻れた空間の迷宮に響き渡る。彼女の身体が響哉から離れ、螺旋状の渦に呑み込まれていく様は、まるで悪夢の中の出来事のように非現実的だった。彼女の伸ばした手が、助けを求めるように虚空を掻いている。

 響哉は反射的に手を伸ばし、彼女の後を追おうと身を躍らせた。しかし――キュルケーがそれを許容するはずがない。彼女の眼光に宿る冷徹な意志は、あらゆる妨害を排除するという絶対的な決意に満ちていた。


「《Palimpsest(上書き)――Load》」


 キュルケーの呟きと共に、一度螺旋の渦中に身を投じようと跳躍した響哉の座標が、瞬時にして書き換えられた。時間軸の巻き戻しにより、彼の身体は床面へと強制的に復帰させられ、急激な位置変化にバランスを崩してよろめく。

 天井を仰ぎ見るが、手を伸ばしたところでシアに到底届くような距離ではない。魔法による引き寄せを試みようとも、どのように捻じれているかが掴めない混沌と化した空間では、成功の確率は限りなく低い。


「……ったく、法則いじるのは苦手なんだがなあ」


 響哉の眼光が鋭くなった。

 普段の飄々とした笑みが完全に消失し、まるで研ぎ澄まされた刃のような極限の集中状態が顕現する。空気そのものが緊張に満ち、戦慄すべき何かが始まろうとしていることを予感させる静寂が、混沌の中に一瞬だけ訪れた。


 手を前に突き出す。その動作は、まるで世界の理そのものに挑戦状を叩きつけるかのような、絶対的な意志に満ちていた。

 異能者の根城には珍しく、潤沢に存在する環境魔力を、自身の体内に宿る魔力と同調させていく。魔力の流れが彼の身体を包み込み、まるで見えざる甲冑を纏うかのように輝きを放つ。彼の周囲で大気が微かに震動し、現実と魔法の境界線が曖昧になっていく。

 世界にはどのような法則が存在するのか。それらはどのような"式"によって秩序を表象していたか。重力の方程式、慣性の原理、エネルギー保存の法則――歪められた現実の向こう側に、本来あるべき秩序の青写真を透かし見る。


 一つ、二つ、三つ。破綻した法則の歪みを見つけ出し、正しい状態をその脳裏に鮮明にイメージし――


「《秩序に従え》」


 並行時空で組み立てた魔法を、魔力を媒介として現実に転写する。


 その瞬間、世界が息を呑んだ。


 響哉が魔法を行使したその刹那、破綻していた物理法則が元の姿を取り戻した。重力が本来の下向きに働き、慣性と保存の法則が再び適用される。空間を支配していた混沌が、一瞬にして厳格なる秩序へと塗り替えられた。まるで神の手によって世界が修復されたかのような、荘厳なる復元。

 法則はどれほど理不尽に捻じ曲げられようと、元となった根源的秩序が存在する限り、その本質は失われない。それをこの場に適用することを、魔法の絶対的な力は拒まない。魔法による上書きの能力がエウクレイアの異能を上回った結果、この空間では本来の秩序が優先適用されることとなったのだ。力と力の激突において、より強大な方が勝利を収めたのである。


 今回の場合は、エウクレイアの理不尽に、魔法が勝利した。


「……大体わかった」


 響哉の口元に、狩人が極上の獲物を見つけた時のような、危険極まりない笑みが歪んだ。彼は軽く首を振り、頸骨を鳴らす。まるでこれまでの窮地が嘘のように、苛立つというより、むしろ興奮しているようにさえ見える。

 彼は歪んだ窓の外の平穏な風景を見つめ、まるで軍事報告書を読み上げるように述べていった。


「異能。ピンクのヤツは特殊な糸を生み出す。針で操っていて、切断は不可能っぽいな」


 フィリアの指先が、まるで琴線に触れられたかのようにピクリと反応する。


「水色は空間弄り。空間の変形と、その内部での法則操作。ただ、能力は一部屋限定ってところか?」


 エウクレイアの瞳が、まるで刃のように鋭く細められる。


「ベージュのは修復系。再生、巻き戻し、復元か。ただ、遠隔では異能は発動しないみたいだな」


 ナターシャの手が、破れたタペストリーに触れようとして、寸前で止まる。


「白いのは精神干渉。トリガーは『言葉』だ」


 メディアは慈愛に満ちた仮面のような笑みを崩さない。しかし、その瞳の奥底に宿る冷たい光が、響哉の洞察力への警戒を示している。

 最後に、響哉の鋭利な視線はキュルケーへと注がれる。メイド長の完璧に整えられた立ち姿、一分の隙もない戦闘態勢。そして――


「そして、メイド長……お前の異能は特定のやつの時間を巻き戻す。さっき俺の場所が変わったのもお前の仕業だろう? 位置を巻き戻して、状況を都合よく修正した」


 キュルケーの瞳が、僅かに見開かれた。異能の本質を瞬時に看破されたことへの驚愕と、同時に湧き上がる敵への評価の見直し。


「厄介な能力だが制約もあるはずだ。『ロード』っつってたから、セーブしたポイントにしか戻れねえとか」響哉の眼光が、一層鋭くなる。「記憶のほうはどうなってンだろうなあ? 巻き戻し時の記憶は保持されるのか? それとも、都合よく消去されるのか?」


 響哉の視線が全てのメイドを威圧するように見渡す。まるで戦場において敵陣を俯瞰する指揮官のような、絶対的な優位を確信した者の眼差し。


「……まあ、お前らの異能がなんだろうと関係ない。どんな異能、どんな無茶苦茶な出力だったとしても――俺がてめえらを殺して、ルイ君を連れ帰る」


 その声には、戦場で数え切れないほどの強敵と渡り合ってきた者だけが持つ、絶対的な威圧感が宿っていた。空気そのものが重くなり、温度が数度下がったように感じられる。まさに修羅が顕現した瞬間であった。

 だが、キュルケーの表情は微動だにしなかった。まるで大理石の彫像のように、完璧な無表情を保持している。


「……戯言は慎みなさい」

「いつまで余裕でいられるかな」


 響哉が獰猛に、しかし確信に満ちて笑った。その笑みには、地獄の業火から這い上がってきた修羅の顕現とも言うべき、凄絶極まりない殺気が宿っている。

 響哉は天井を仰いだ。遥か上方でフィリアの操る糸に宙吊りにされているルイの姿を捉える。拘束されてなお、戦闘への意志を失わない少年への信頼が、その瞳に宿っていた。


「ルイ! お前は白髪の精神干渉の異能を潰せ、いいな!!」

「おう!」


 響哉の叱咤を背中に受け、ルイは短く力強く応える。その声には、迷いは微塵もなく、戦場に立つ者としての覚悟が込められていた。異能を支配する異能を持つ者として、精神干渉に対する対抗手段を見出すことは可能なはず。


「先に向こうに送ってやるから……主人の"お迎え"の準備でもしておけよ、使用人ども!」


 響哉が獰猛に笑う。その声には、すでに勝利を確信した者の余裕があった。戦場において、情報こそが最大の武器。敵の手の内を完全に看破した今、後は実行あるのみ。

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