第十八話 約束の履行 - 2
『誰かを癒す力を! 温もりを! お前はそれを"偽物"って言うのか!?』
『だったら――お前のその冷たい魔法の方が、"殺しのためだけの偽物"なんじゃないのかよ!!』
ルイの言葉が、琴葉の思考に赤熱した鉄釘のように打ち込まれ、激痛と共に反響し続けている。
(……早く消えて。早く忘れろ。早く──)
何度も、何度も、自分自身を鞭打つようにそう願い続けた。
だが、そう上手くはいかない。記憶は彼女の意志に反して、繰り返し蘇る。青年の純粋な怒りと正義感が、彼女の存在意義そのものを否定する刃となって突き刺さる。
――そう簡単にできたのなら、彼女はこの場所にいなかっただろう。
使い物になると判断してもらえて、あの国にい続けただろうし――
何より、彼女は"あの時"、躊躇せずにこの澄幽を滅ぼしていただろうから。
琴葉は澄幽を出るために、深い霧が立ち込める渓谷にかかる古びた吊り橋を渡っていた。ちょうどお昼時が近付いてきた。そろそろ、手前に住む数少ない住民たちが、食堂に集まって賑やかに食事を楽しんでいる頃だろうか。
『琴葉ちゃん。琴葉ちゃんも、たまには食堂においでや』
優しい声が脳裏をよぎる。振り向かない。絶対に、振り向いてはいけない。
彼女は食事を必要としない。慣れあいという無駄な時間に費やす余裕などない。一分一秒でも長く戦場に立ち、一つでも多くの脅威を殲滅しなければならない。
一歩、また一歩と足を進めるごとに、背中に広がる守るべき景色の重みが増していく。今、彼女が存在する意義そのもの。
(……一度救えたところで、最後まで守りきれなければ意味がない)
彼女の横を、細い小川がさらさらと流れていた。
その水面に、彼女の瞳が映る。
深い、深い、紅の色。
血を凝縮したように、鮮やかで、そして暗い。
激情を内包しながらも、心の芯を凍らせる冷たさをたたえた色。
同時に彼女にとってこの色は特別な色だった。
(こう、ならなくちゃ)
彼女の脳裏を過ぎるのは――
その時、ふと背後から妙な気配を感じた。
最初はわずかな違和感でしかなかった。風の流れが微かに変わった程度の、些細な変化。だが琴葉の研ぎ澄まされた感覚は、その小さな異変を見逃さない。
次の瞬間、その違和感は確信に変わった。空間そのものが歪むような、澄幽にはふさわしくない不自然な波紋が大気を伝わってくる。まるで見えない何かが現実の表面に亀裂を走らせているかのような、不吉な振動。
この整然と秩序立てられた聖域で、このような歪みが発生するはずがない。しかし、澄幽を守る魔法障壁は完璧で、通常、外部からの侵入を許すような脆弱性など存在しない。秘匿された箱庭。この場所の位置も、誰も知らないはず。
だから、これは――
(異能者……まさか誰か、気配を辿られて……!!)
琴葉は即座に身を翻し、魔法による瞬間移動で寧静亭の前まで一気に転移した。
「珠桜!!」
大きな音を立てて扉を押し開けたそこには──誰もいなかった。
窓も開いていない。奥へ繋がる扉も閉ざされたまま。静寂だけが支配している。
魔力を最大限に拡散させて気配を探る。だが、珠桜だけではない。珠桜と常に共にあるはずの律灯も、先ほど激昂して啖呵を切ったルイも、怯えていたシアも、長年鍛えてきた響哉さえも──澄幽のどこにもその気配が感知できない。
門を通って外に出たわけではない。一度もすれ違わなかった。だが、外に出る方法はその門だけ。
仮に全員が奥に行ったのだとしても、澄幽を完全に無人にすることがあるはずがない。最低でも律灯か響哉のどちらかは残るはず。
なのに。
なのに──!
「……珠桜?」
執務室は不気味なまでに空虚だった。
琴葉は深紅の瞳を細めた。すぐに、空気中に漂う微細な、美しい星の砂のような粒子が視界に捉えられる。
(これはミコ様の……違う、他に混じっているはず)
無数の金色の粒子がわずかに、しかし不気味に舞っているのが確認できた。それは間違いなく、澄幽に本来いないはずの者が異能で空間干渉した痕跡だった。
「……嘘」
零れ落ちた声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
やられた。また、この手が届かない距離で。またもや──
(なんで。なんで私は、いつも間に合わない)
胸の奥深くで、何かが――彼女の心そのものが、鈍い音を立てて砕け散った。
ずっと、戦い続けてきた。血を流し、命を賭け、魂を削って──それでも守れない。
奪われたのは調査部隊の人間たちだけではない。
珠桜まで。
この箱庭に残された希望が。
絶対に、失ってはいけない、希望まで、奪われる。
(なんで、なんで、なんで──!!)
拳が自然と握られる。爪が手のひらに食い込み、血が滲んだ。しかし、その痛みさえも最早感じない。
怒濤の怒りと、底無しの絶望、圧倒的な無力感――それらが渦を巻き、一つとなって彼女の心の残骸を灼熱の炎で焼き尽くそうとしていた。
その直後――再び、あの不気味な気配が皮膚を這う。琴葉はゆっくりと、視線を澄幽の入口の方へ向けた。
濃密な霧の彼方に、何かがうごめいている。人の輪郭をなぞっているが、その本質は明らかに人間ではない。死神が優雅に人の皮をまとったような、底知れぬ邪悪さと、生命を凍らせる絶対零度の冷気を放つ存在。
瞬間──琴葉の激情が、氷水をかぶったように完全に凍りついた。
その忌まわしい気配を、琴葉は骨の髄まで、細胞の一つ一つまで記憶していた。
燃え盛っていた怒りも、泣き叫ぶ絶望も、無力感の呻きも――すべてが一瞬で霧散し、そこに現れたのは、深淵よりも深い、何も存在しない虚無。感情という概念そのものが消え去った、完全な虚無。
「……ああ」
──"また"。そうやって、奪いに来る。
手が自然と愛刀の柄へと滑る。その動作には、最早微塵の迷いも躊躇いもない。ただ、あるべき場所に収まるべきものが収まるだけの、必然の動き。
彼女を包む空気そのものが劇的に変化した。先ほどまでの熱狂的な殺気や激情は跡形もなく消え失せ、そこには――より深遠で、より冷徹で、より絶対的な"何か"が立ち現れる。
それは、もはや殺意という生易しいものではない。
ただ純粋に、目の前の存在を"消去"するという意志。。感情を一切介さない、物理法則の如く正確無比な、機械的処理の宣言。
戦闘態勢へと移行しながら、琴葉は極めて静かに、しかし驚異的な速度で転移魔法の術式を構築していく。その美貌には、最早人間らしい感情の影すら存在せず、深紅の瞳は、この世のものとは思えぬ冷たさと静かな狂気を宿して輝く。
(もう──"今回は"、絶対に逃がさない)
並行世界の狭間を裂き――
膨大な魔力を一気にかき集め、現在地と、あの忌むべき気配の源点とを強引に直結する。
空間を極限まで歪め、圧縮。その狭間を突破した先に待つのは――




